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境界線の上で、立つ — Standing on the Line —  作者: 和泉發仙


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余白に立つ人




前書き


逃げ場が必要な人がいる、という事実と、

逃げ場を用意した人がいる、という事実は、

同じではない。


けれど、

同じ場所に重なることがある。


それは優しさではなく、

構造の偶然だ。





第十話 余白に立つ人


夜は、昨日より少しだけ冷えていた。


三崎は駅からの道を、いつもよりゆっくり歩いた。

足取りが重いのは仕事のせいではない。

会議の資料も、折れ線グラフも、頭の片隅にはある。

けれど今、彼の注意はそれとは別のところに吸い寄せられていた。


コンビニの光が見える。


明るい。

均一で、やさしい色だ。

夜の街に置かれた“ここだけ昼”みたいな箱。


自動ドアが開く音を聞く前に、

三崎は軒先を見た。


ミオがいた。


今日は立っていない。

段差のところに腰を下ろし、片膝を抱えている。

スマートフォンは手にあるが、画面は暗い。

指だけが、ときどき動く。


彼女は、三崎を見ても、顔を上げなかった。


それは拒絶ではない。

期待しない、という態度に近い。


三崎は店に入った。


「いらっしゃいませ」


老人の声。

それが、いつもより少し温かく聞こえたのは、

外の冷えのせいかもしれない。


弁当を手に取る。

棚の前で一秒だけ迷う。

迷ったこと自体が、今の三崎には妙だった。

迷う余裕がある。

それは恵まれているということでもある。


会計を済ませ、袋を受け取る。


「……外に」


三崎は言いかけて、やめた。

老人は何も聞かない。

聞かないことが、この場所のルールだ。


外に出る。


ミオは同じ姿勢のままだった。

風に前髪が揺れる。

肌が露出している首元が寒そうに見えた。


「……こんばんは」


三崎が言うと、

ミオはようやく顔を上げた。


「おそ」


短い一言。

責める調子ではない。

ただ、事実の確認。


「いつも通りです」


「ふーん」


それで会話が終わってしまいそうな沈黙が落ちる。


三崎は、袋の中を見た。

自分のために買ったもの。

それを誰かに渡す理由は、ない。


理由がないのに、

渡したいという気持ちが出てくることがある。

そのこと自体が、彼にとっては居心地が悪かった。


「寒くないですか」


そう聞くと、

ミオは肩をすくめた。


「別に」


昨日も聞いた答え。

同じ言葉でも、今日の「別に」は少し重い。


「……ここ、好きなんですか」


三崎がそう言うと、

ミオは笑わなかった。


「好きとか、ない」


「じゃあ」


「落ち着く」


ミオは、コンビニの光を見た。


「ここ、さ」


彼女は言葉を選ぶみたいに、間を置く。


「誰も、

“どうするの”って聞かない」


三崎は、無意識に頷きそうになって、止めた。

聞かないのは、善意ではない。

ビジネスの仕組みだ。

それでも彼女の言葉は、善意のように響いてしまう。


「……それは」


言いかけて、三崎は飲み込んだ。

説明の癖が出る。

説明は、この距離を壊す。


ミオは、その飲み込んだ動きを見て、目を細めた。


「言いたいことある?」


「……ありますけど」


「言わなくていい」


あっさり言う。


「言われたら、

めんどいから」


三崎は、少しだけ笑ってしまった。

笑っていいのか分からないのに、笑ってしまう。

その笑いが、彼にとっては救いだった。


「……昨日さ」


ミオが言った。


「“想定してない”って」


三崎は息を止めた。


「うん」


彼女は続ける。


「でもさ、

想定してないのに、

ここにあるじゃん」


「……ありますね」


「あるから、来る」


その言い方は、乱暴だ。

けれど、正確だった。


「来ちゃダメって、

言われてないし」


「言われてないですね」


「追い出されないし」


三崎は、ふと、老人の顔を思い出した。

余白、という言葉。

かつてあったとされるもの。


「ここって、

余白なんじゃない」


ミオが言う。


「余白?」


三崎が聞き返すと、

ミオは顔をしかめた。


「知らん」


すぐに投げる。

深追いされるのが嫌いなのだと、三崎は思った。

けれど同時に、彼女は“言葉の手触り”には敏感だ。


「余白っていうか、

空き」


ミオはそう言い直した。


「空いてる場所」


「……空いてる場所」


三崎は復唱した。


「誰のものでもない感じのやつ」


ミオは、膝を抱え直した。


「家ってさ」


唐突だった。


「誰のもの?」


三崎はすぐに答えられなかった。


家は、家族のもの。

住む人のもの。

当たり前の答えが浮かぶ。

だが、ミオが聞いているのは、そういうことではない。


「……住んでる人のもの、

ですかね」


ミオは鼻で笑った。


「じゃあ、私の家、

私のものじゃないわ」


三崎は、言葉を失った。


「怒ってないよ」


ミオは、先回りするように言う。


「怒ってない。

ただ、そうなってるだけ」


彼女は、コンビニの光を眺める。


「ここはさ、

誰のものでもない感じする」


「でも、ちゃんとしてる」


「だから、変」


三崎は、その「変」を否定できなかった。


完成しているものが、

余白として使われる。

その矛盾が、目の前にある。


「……あったかいの、

飲みます?」


三崎は袋から、

スープをもう一つ取り出した。

今日は自分用に買ったのではない。

買った時点で、もう自覚していた。


ミオは、目を細めた。


「助けたいの?」


「……分かりません」


正直に言った。


「助けたい、というより」


言葉を探す。


「……見過ごしたくない、

です」


ミオは、少し黙った。


それから、

受け取らない手で、手のひらを出した。


「じゃあ、置いといて」


「え?」


「受け取るとさ、

借り作るじゃん」


三崎は、胸の奥が少しだけ痛くなった。


「借りは嫌?」


「嫌」


即答。


「借りって、

返さなきゃいけないし」


「返せないと、

嫌な顔される」


言葉の最後だけ、ほんの少しだけ速くなる。

そこに、彼女の経験が染みていた。


「置いといて」


ミオはもう一度言う。


「そしたらさ、

私が勝手に飲むだけ」


三崎は、スープを段差の端に置いた。


ミオは、すぐには手を伸ばさない。

まず三崎を見て、

それからコンビニの光を見て、

最後に、少しだけ息を吐いた。


「……ちゃんとしてるって、

怖いよね」


ぽつりと。


三崎は、答えられなかった。


怖いのは、ちゃんとしていることではない。

ちゃんとしているのに、

こぼれることだ。


三崎がそう思った瞬間、

店内から自動ドアの音がして、

エリオットが出てきた。


「こんばんは」


彼は三崎に言い、

次にミオを見る。


ミオは立ち上がらない。

見上げもしない。

ただ、目だけを向ける。


エリオットは距離を測るように一拍置いて、

それから、挨拶を“確認”のように繰り返した。


「……こんばんは」


ミオは、短く返す。


「うん」


それが彼女にとっての、最大限だった。


三人は、軒先に並んだ。


完成した光の縁。

雨のない夜。

風だけが動く。


エリオットが、ゆっくり言う。


「ここは、

とてもよく出来ています」


三崎は頷く。


ミオは、スープを一口だけ飲んで、

小さく息を吐いた。


「うん」


それだけ。


「でも」


エリオットが続ける。


言葉は、慎重だった。


「よく出来ている場所ほど、

“よく出来ていない前提”を

見落とします」


三崎は、動けなかった。

その言い方は、

掲示板で見た“外の前提”と似ていた。


ミオは、首を傾げる。


「前提ってなに」


エリオットは、答えを探して、

一度口を閉じる。


「……ここに来る人は、

明日、どこかへ戻る」


ミオは、そこで目を細めた。


三崎の胸に、

昨日とは違う冷たさが落ちた。


「戻る場所がある、って前提」


エリオットが言った。


ミオは、しばらく黙っていた。


それから、

肩をすくめる。


「ふーん」


軽い。

軽いから、重い。


三崎は思った。


この夜に、

説明はいらない。

正しさもいらない。


ただ、

ここに立っていることだけが、

戻れない何かを作る。


ミオは、スープを飲み切ると、

容器を袋に入れた。


「じゃ」


立ち上がり、

歩き出す。


今日は、振り返らない。


三崎は彼女の背中を見送った。

背中が遠ざかるほど、

この明るい箱が、

誰のためのものか分からなくなる。


そして、それが

「問題ない」という言葉の輪郭を、

少しだけ歪めた。





後書き


余白は、

用意されたものではなく、

偶然生まれることがあります。


“ちゃんとしている場所”が、

“こぼれた人”を受け止めてしまうとき、

私たちは、

仕組みの正しさと、

現実の正しさが

別の方向を向いていることに気づきます。



次は、

この“別の方向”を

言葉にしようとする人が現れます。


――続きます。

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