第16話 危地
「なぁ、本当にこれでいいのか?」
俺は困惑を隠せないまま、目の前に並んだハーピーの卵へと手をかざした。
傍らには、人間の子供で言えば小学低学年ほどに見える、幼いハーピーの少女たちが十人ほど寄り添っている。彼女たちは、群れの大人たちが不在の間、この大切な卵たちを護るために残った娘たちだ。
彼女たちの話によれば、ハーピーは卵生であり、例年この時期に産卵期を迎えるという。
だが、ただ温めるだけでは新しい命は芽吹かない。孵化に至るまでの間、親や群れの誰かが定期的に魔力を注ぎ込むことで初めて羽化の時を迎えられるのだそうだ。
今、俺は恐る恐る、その一つに掌を近づけている。
「はい。お母様はいつも、こうして私たちが生まれる前……優しく、優しく魔力を注いでくださっていました」
少女の一人が、期待に満ちた瞳で俺を見上げながら言った。
異世界とはいえ、不思議なこともあるもんだ。本当にこんなことで……。
半信半疑のまま意識を集中した、その瞬間だった。
──ズ、と。
僅かではあるが、体内から明確に魔力が引き抜かれるのを感じた。
その感覚は、魔術を行使した時の感覚に近しい。ただ意識して魔力を送ったというよりも、卵に吸われたような奇妙な感触だった。
吸い取られる魔力量そのものは、俺の総量からすれば微々たるものだ。だが、殻の向こう側に宿る小さな「命」が、俺の魔力を求めて必死に脈動しているのが、掌を通じてダイレクトに伝わってくる。
(生きてるんだな、こいつらも……)
ドクン、ドクンと、頼りなくも力強い鼓動。
やがて、渇きが癒えるようにその脈動がピタリと収まり、卵が静かな眠りについたのが分かった。
「……これで、いいのか?」
まだ手のひらに残る微かな熱に戸惑いながら、俺が幼いハーピーたちを振り返ると、
「ありがとうございます! バッチリです!」
彼女たちは一斉に屈託のない笑顔で顔をほころばせ、飛び跳ねるようにして感謝の言葉を口にした。
どうやら、上手くいったらしい。
続けて、他の卵にも魔力を与えていく。
「これで最後だな。それじゃあ、俺は……」
最後の卵に魔力を込めて、一仕事の後の一服でもと煙草に火を付け習慣的にマップを開いて周辺の状況を確認した。
だが、表示された光景に、俺の思考は一瞬で凍りついた。
(……なんだ、この違和感は)
違和感の正体にはすぐ気がついた。
昨日まで北の森に広く点在していた、敵性存在を示す『赤点』の群れ。それが、忽然と消えている。
……いや、違う。消えたのではない。
マップをスライドさせると、信じがたい密度でそれらが「一箇所」に凝縮されているのが見えた。
数百、いや、数千を超える『赤点』。
それが、ひときわ不気味に、濃く輝く巨大な『赤点』を中心にして、森の北部付近に集結していた。
まさか……。
嫌な予感が背筋を駆け抜ける。俺はマップの座標を読み取り、脳内の記憶と照らし合わせた。その場所は──ハーピーたちが言っていた、彼女たちの住処である岩山周辺と完全に一致した。
その瞬間、俺の頭の中で散らばっていた数々の疑問が、一気に音を立てて氷解していった。
なぜ、コルネリアは一族の宝である大切な卵を、出会ったばかりの俺に託したのか。
なぜ、この場に残されたのが、戦う力を持たない幼い少女たちだけだったのか。
(……あいつ、オークとの戦になることに気づいてやがったな)
コルネリアたちに負ける気はないのだろう。だが、自分たちが全滅するかもしれない最悪の事態も想定していたのだ。
万が一の時、せめて種族の未来である卵と子供たちだけは、外敵の手の届かない「安全な場所」へ逃がそうとした。
「チッ……」
思わず舌打ちが漏れる。
理屈を言えば、これはハーピーたちの戦いだ。
余所者の俺が出る幕などどこにもない。彼女たちの誇りを重んじるなら、黙ってここで卵を守り抜くことこそが「正解」なのだろう。
しかし、マップに表示される残酷な数字が、俺の理性を削り取る。
千を超えるであろうオークたちの『赤点』に対し、受けて立つハーピーたちの『白点』はあまりに少なすぎる。半分以下、下手をすれば三分の一程度だ。
コルネリアや戦士たちが決して弱くないことは知っている。
だが、この暴力的なまでの物量差を覆せるか……?
答えは、ノーだ。
圧倒的な数的不利に加えて、何よりもハーピーという種族は夜目が利かない。
この新月の闇夜は、彼女たちにとってとんでもなく不利となる。
(……間に合うか?)
マップ上で両陣営の距離を測る。
未だ開戦の狼煙は上がっていないようだが、両者はいつ戦端が開かれてもおかしくない、目と鼻の先の距離にまで接近している。
嵐の前の静けさ──それが崩れるのは、おそらく数分、あるいは数秒後だ。
「少し、出掛けてくる!」
結界が張られるこの拠点なら、彼女たちも卵もまずは安全だろう。
俺は背後を振り返らず、幼いハーピーたちにそう言い残し、焦る気持ちを力ずくで抑え込み、夜の森に向かって地を蹴るのだった。
(間に合ってくれよ……!)
◇
「あ、が……ッ!?」
空を支配していたはずの七色の翼が無残に折れ、翻る。
重力に逆らう術を失ったコルネリアの身体は、夜風を切り裂きながら、岩山の硬い地表へと叩きつけられた。
「お母様ッ!!」
悲鳴を上げたのはフィアだった。
墜落の衝撃で肺の空気を吐き出し、視界に火花が散る。コルネリアが呻きながら顔を上げると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
安全だと思っていた絶壁の裏から、次々と這い上がってくるオークレンジャーの影。
さらには、松明の明かりの届かない闇の深淵から、漆黒の矢が雨あられと降り注いでいる。
「……汚らわしい、真似を……ッ!」
コルネリアは折れた翼を無理やり動かし、地に這いながらも腰の剣を引き抜いた。
だが、多勢に無勢。空という絶対の優位を奪われたハーピーは、地上ではあまりに脆い。
「ギヒヒッ! 落チタ小鳥ハ、モウ飛ベネェナァ!」
目前に迫るオークの太刀を、コルネリアは必死に剣で受け流す。しかし、背後から別のオークがその細い足を狙い、無慈悲な一撃を叩き込んだ。
「──くあああっ!?」
「お母様を……離せえッ!!」
フィアが猛然と突っ込み、風魔法でオークの首を撥ね飛ばす。だが、それが彼女の最期の輝きとなった。
フィアの背後、岩の影に潜んでいたゼノの側近が、無造作にその黒い槍を突き出したのだ。
「……ぁ……」
鈍い音が響き、フィアの胸から赤黒い刃が突き抜ける。
「フィア……!? フィア!!」
コルネリアの絶叫が夜空に木霊する。
だが、フィアは答えない。愛娘の瞳から光が消え、壊れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「お姉ちゃん! 嫌だ、嫌ああああっ!!」
逆上したミィアが、我を忘れて敵陣へと飛び込んでいく。
「待て、ミィア! 戻るのじゃ!!」
コルネリアの手は届かない。
ミィアの剣がオークの皮を裂いた直後、上空から放たれたゼノの呪矢が、彼女の小さな喉元を正確に貫いた。
短い悲鳴さえ上げられず、ミィアはフィアの亡骸に重なるようにして動かなくなった。
「あ、ああ…………おのれぇえええ!!」
その叫びは、一族の「女王」としての矜持と、母としての痛恨が混じり合った咆哮だった。
コルネリアの全身から、これまでにない密度で圧縮された風の魔力が吹き荒れる。
彼女は、ただ守られるだけのか弱い女性などではない。荒れ狂う空を統べ、幾多の魔獣を討ち滅ぼしてきたハーピー一族の女王である。
「貴様ら……一匹残らず、わらわの風で塵も残さず消し去ってくれるわッ!」
地に墜ちながらも、その瞳に宿る黄金の光は微塵も衰えていなかった。
折れた翼を支えに爆発的な勢いで地を蹴り、女王は風の刃を纏った剣を振るう。
一閃。
最前列にいたオークの巨体が、鎧ごと真っ二つに両断される。
二太刀。
背後から迫る三匹のオークの喉を、舞い上がるような旋回斬りが一気に裂いた。
十匹、二十匹──。
女王が通る道には、言葉通り肉の山が築かれていく。
その峻烈なまでの戦いぶりに、虐殺を楽しんでいたオークたちの顔から一瞬で余裕が消え、本能的な恐怖が走る。
だが、その苛烈な攻勢に、残酷な「楔」が打ち込まれた。
「……っ!? がはっ……あ、ああああッ!!」
彼女の羽に突き刺さった漆黒の矢。そこから注ぎ込まれた呪矢の毒が全身に回り、自慢の脚は鉛のように重く、視界はどす黒い霧に覆われていく。
「ケケッ……。ヤット、呪矢ガ効イテ来タ様ダナ。魔力自慢ノ女王様ニハ、うちの軍師特製ノ『魔封ジノ呪毒』ガヨク効クダロ?」
ゼノの不気味な嘲笑が、静まり返った戦場に響き渡る。
魔力回路に干渉する呪毒に蝕まれ、徐々にその動きが重く精彩を欠いていく。
ついには指先一つ動かすにも苦痛が伴う中、コルネリアは剣を杖代わりに縋り付いて辛うじて立っていた。
かつて空を統べた気高き女王の姿はどこにもない。
そこにあるのは、呪毒に蝕まれ、ただ呼吸をすることさえも苦痛に喘ぐ、無力な一人の女性の姿だった。
ゼノは獲物をいたぶる獣のような瞳で、コルネリアの髪を乱暴に掴み上げた。
無理やり顔を向けさせられ、コルネリアの視界に飛び込んできたのは、物言わぬ骸となったフィアとミィアの姿だ。
「……ぁ、ああ……」
「ソノ顔ダ。ソノ絶望ニ染マッタ顔ガ見タカッタ。空ノ女王サマモ、地ニ墜チレバただの雌ダナァ。ケケッ、毟り甲斐ガアルゼ……!」
ゼノが下卑た笑みを浮かべ、腰の短刀を抜き放つ。
「サァ。女王様ハドンナ悲鳴ヲ……」
ゼノが愉悦に身を震わせ、今まさに短刀の先をコルネリアの喉元へと滑り込ませようとした、その瞬間──。
──ザッシュッ!!
空気を断ち切る鋭い音と共に、ゼノの視界が唐突に回転した。
自分の首と身体が永遠に別たれた事すらも理解できないほどの超速。
下卑た笑みを浮かべたままのゼノの頭部が、その太い首から切り離され、夜空へと高く舞い上がった。
「…………え?」
コルネリアの髪を掴んでいた手の力が、ふっと消える。
ドサリ、と重い音を立てて、頭を失ったゼノの巨体が地面に転がった。
あまりに一瞬の出来事に、周囲を囲んでいたオークたちは、自分たちの指揮官が死んだことさえ理解できず、呆然と立ち尽くしている。
「遅くなった……」
血飛沫が舞う中、コルネリアの霞む視界に、漆黒の衣を纏った男の背中が映り込んだ。




