第15話 襲来
闇夜の森は、その日、おぞましいまでの沈黙に包まれていた。
普段なら微かに聞こえる獣たちの気配も、風に揺れる木の葉のざわめきすらも、全てが厚い闇の底に押し込められている。
その絶対的な静寂を破り、大地を這いずるような重低音が、ゆっくりと、しかし確実に響き渡り始めた。
ズサッ……ズサッ……ズサッ……
それは、千を超える重い足の音だった。 森の奥深くから現れたのは、暗闇に溶け込むような、おぞましい緑と茶色の塊。 森の静寂は、おぞましい「熱」と「重圧」によって塗り潰されていた。
この夜は新月。空を覆う雲は星明かりさえも拒絶し、地上には指一本先も見通せない、完全なる漆黒が支配していた。だが、その絶対的な静寂を破り、大地を這いずるような重低音が、ゆっくりと、しかし確実に響き渡り始めた。
彼らは灯火を一切持たない。ただ、獲物を、略奪を、そして破壊を渇望する数千の赤い瞳が、意志を持つ燐光のように闇の奥底で蠢いていた。
オークだ。
濁った息を吐き出す獣たちの群れは、まるで巨大な泥流が地表を覆い尽くすかのように、重い足音を響かせながら、圧倒的な質量で森を浸食していく。 彼らの皮膚は苔むし、古傷と新たな傷跡が複雑に絡み合い、獲物の血で汚れた粗末な武具が、時折無機質な音を響かせる。
腐臭と獣臭、そして僅かに混じる血の匂いが、風に乗って遠くまで運ばれてくる。 巨木が幹を軋ませ、草木は踏み潰され、森そのものがその禍々しい存在に圧し潰されていくかのようだ。
軍団の中央には、ひときわ巨大な影がそびえ立つ。オークキング・バガズ。 その傍らでは、屈強なオークナイト二体がかりで、主の得物である巨大な大剣を、うなりを上げながら大切そうに抱え運んでいた。並のオークでは持ち上げることすら叶わぬその鉄の塊は、バガズの振るう凄絶な破壊力の象徴でもあった。
闇夜の森を埋め尽くす軍団のただ中、オークキング・バガズの側に他とは一線を画す冷徹な知性を漂わせる小柄な影があった。オークの軍師、ギルゼである。
彼は、傍らを歩く巨大な岩山のような王、バガズを見上げ、汚い歯を剥き出しにして低く笑った。
「カカカ……王ヨ。今夜ハ最高ノ『虐殺日和』デスゾ。空飛ブ生意気ナ鳥ドモモ、新月ノ闇ジャ、タダノ目潰シサレタ雛モ同然……」
バガズは地響きのような鼻鳴らしを上げ、濁った赤い瞳をギルゼに向けた。
バガズは、オークナイト二体がかりで恭しく運ばれている巨大な大剣の柄を、太い指で愛おしそうになぞり、凶悪な笑みを刻んだ。その指先が触れるたび、重厚な鉄の音が夜の静寂に低く響く。キングは、ハーピーたちが暗視を持たず、闇夜では己の翼すら見失う無力な羽虫に過ぎないことを、残虐な確信をもって熟知していた。
「ブォホホ……。愉シミヨナ。逃ゲ惑ウ声、握リ潰ス音……全テガ今宵ノ酒ノ肴ヨ」
オークキング・バガズは、これから始まる虐殺の宴、そして引き千切られる羽音と絶望の悲鳴を想像し、喉の奥から這い出すような愉悦の笑みを浮かべた。その巨躯から漏れ出る殺気は、周囲のオークたちの士気をどろどろとした狂気へと変えていく。
一切の明かりを灯さぬ、死の行軍。 その中央に立つキングの冷酷な瞳には、新月の深い闇を透かして、ハーピーたちが平穏に眠る巨大な岩山のシルエットが、はっきりと、そして逃れられぬ標的として映し出されていた。
「……やはり、来たか」
岩山の入り口に近い楼台の上。コルネリアは漆黒の闇に沈む森を見下ろし、低く、重みのある声で呟いた。
視界を塞ぐのは、星明かりさえ届かない新月の闇夜。ハーピーの目には、眼下に広がる世界はただの底なしの虚無にしか見えない。だが、そこには確実に、凄まじい熱量を持った悪意が蠢いている。風に乗って届く腐臭、そして大地を揺らす、千を超える軍勢の足音。
オークどもの不審な動きは、数日前から察知していた。奴らがこの新月の夜を狙い、自分たちの「夜盲」という弱点を突いてくることも、彼女は百も承知だった。
「お母様……奴ら、すぐそこまで来ています」
傍らに控えるフィアの声が、緊張に微かに震える。だが、コルネリアはその震えを打ち消すように、力強く娘の肩に手を置いた。
「案ずるな。わらわたちが、ただ指をくわえて待っていると思うたか? 戯けめ。あやつに卵を預けたのは、何も弱気になったからではない。わらわたちが、心置きなく戦場を焦がすためじゃ!」
コルネリアが右手を高く掲げると、闇の中に潜んでいたハピネの戦士たちが一斉に応じる気配がした。
「火を灯せ! 闇を切り裂き、我らの獲物を照らし出せッ!」
合図とともに、岩山の斜面、そして入り口となる険しい隘路に、数百という松明が次々と点火された。赤々と燃え盛る炎が、死を待つだけだったはずの岩山を、瞬時にして黄金の要塞へと変えて、闇夜を照らし、醜悪な侵略者を照らし出した。
ハーピーたちは、既に自分たちの有利な地形で布陣を終えていた。入り口の隘路は、オークの数に任せた力押しを殺すための狭き「死地」。松明の火に照らされたハーピーたちの瞳には、恐怖ではなく、獲物を待ち構える戦士としての猛々しい士気が宿っている。
「者共、聞けい! オークどもは我らが暗闇に怯え、震えていると思うておる。だが、今宵の空を支配するのは、あの醜悪な獣どもではない! この火を掲げた我らハーピーの一族じゃ!さあ、空を駆け、敵を殲滅せよ!」
「「「おおおおおっ!!」」」
「――放てッ!!」
コルネリアの峻烈な号令が、黄金色に染まる夜空を切り裂いた。
合図とともに、岩山の各所に陣取っていたハーピーの射手たちが一斉に弦を引き絞る。松明の火に照らされ、隘路に密集して押し寄せていたオークたちの頭上に、無数の矢の雨が容赦なく降り注いだ。
「ギャアアアッ!?」
「鳥ドモノ、待チブセカッ!?」
闇夜に乗じて無抵抗な獲物を蹂躙するはずだったオークの前衛に、激震が走る。彼らが暗視で捉えていたのは、暗闇に怯える雛などではない。赤々と燃える火光を背負い、高所から冷徹に自分たちの急所を狙い定める「狩人」の群れだった。
「これぞ我らが一族の誇り! 闇が深いならば、火を灯して空を創り出すまでよ!」
コルネリアは七色の翼を大きく羽ばたかせ、自らも先頭を切って宙へと舞い上がった。松明の明かりが届く範囲――そこは今や、完全なる彼女たちの殺戮圏。ハーピーたちは低空を自在に旋回しながら、その鋭い爪と翼から繰り出される【風魔法】で、地上を這いずる醜悪な群れを切り刻んでいく。
「風よ、我が刃となれ! 『ウィンド・カッター』!」
コルネリアが翼を一閃させれば、圧縮された空気の刃が幾重にも重なり、隘路を埋め尽くすオークの兵たちを、鎧ごと、肉ごと、無慈悲に叩き伏せた。狭い地形で逃げ場を失ったオークたちは、倒れた仲間の死体に足を取られ、その鈍重な動きをさらに晒け出していく。
「ひるむな、射続けよ! 泥の獣どもに、一歩たりともこの地を踏ませるでない!」
上空からの苛烈な弓撃と、吹き荒れる暴風。火の粉を散らし、黄金に輝く戦場において、ハーピーたちはまさに「空の処刑人」と化していた。戦況は完全にハーピー側が支配し、オークの先遣隊はもはや肉の壁と化して隘路を埋め尽くしていた。
だが――。
オーク側もただ黙って打たれているわけではなかった。松明の明かりの外、漆黒の闇に紛れた後続部隊から、音もなく「黒い棘」が撃ち上げられた。闇に溶け込むよう入念に加工された漆黒の矢。それが、旋回していたハーピーたちの身体を、翼を、次々と正確に撃ち抜いていく。
「なっ……!? がはっ!?」
「あ、あああッ! お母様っ!」
「お前たち!?」
次々と地上へ墜落していくハーピーの戦士たち。 そして、愛する娘たちを、失ったコルネリアにさらなる絶望が襲い掛かる。
その絶望の声は、背後の絶壁から聞こえた、あの湿った笑い声だった。
「ケケッ……! 綺麗ナ羽根ダナァ。全部毟ッテ、俺様ノ床ニ敷イテヤルヨ」
岩山の険しい背面に、影が躍る。 四天王の一人、ゼノ。 彼が率いるのは、オークの中でも異質な「身軽さ」と「殺傷能力」を誇るオークレンジャー部隊だった。
彼らは『剛力』を指先に集中させ、断崖絶壁を蜘蛛のような速さで駆け上がってきたのだ。
刹那、ゼノが構えた漆黒の弓から、呪詛を帯びた矢が放たれた。
空気を切り裂く鋭い風切り音。 次の瞬間、彼女の誇りであり、美しく輝いていた七色の羽が、無慈悲な黒い矢によって無残にも射抜かれ、七色の羽が宙に舞った。




