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衣織の物語  作者: wa-ta-shi
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衣織の物語90「シンクロ」23 十年前に欠けた私の心

 鈍く低い音ともに自動ドアが開いた瞬間、ひんやりとした空気が私のからだを包んだ。初夏を感じさせる外の青空とはまるで別の世界。会館特有の、少し湿ったような、古臭い匂い。古い木と舞台幕や観客席の布の匂いが混ざった、独特の空気が漂う。私は思わず、そっと浅く呼吸した。これから何かが始まる場所の匂い。


部長「会館の人にあいさつをしよう」

部員たち「ハイ!」


 何事かわからぬ私は、本当にきょとんとしてしまったけど、とっさに周りの先輩たちに合わせる術を持っている自分が誇らしい。副部長さんの隣で私も、受付窓口に向かって一列に並んだ。


部長「南相馬高校演劇部です! よろしくお願いします!」

部員たち「よろしくお願いします!」


 上手に言えたかしら。ちょっときょどってしまった。受付の人が笑っていた原因は、私?


 部長さんの誘導のもと、外の明るさに慣れた目をこすりながらロビーを抜けた。舞台へ通じる通路に入ると、照明がさらに一段暗くなった。通路の壁には過去に行われた公演のポスターが何枚も貼られている。色と紙のくすみ具合が、それぞれの時間を感じさせる。

 先輩方は慣れた足取りで進んでいくけど、私は初めて見る舞台裏に、目が泳ぎっぱなしだった。


 舞台袖に近づくにつれ、空気がさらに変わった。静けさの中に、かすかな緊張が漂っている。誰かが遠くで工具を置く金属音が響く。照明の調整らしい白い光が一瞬だけ通路の壁を濡らした。壁際にはケーブルがいくつも束ねて吊られている。


 そうして、舞台袖に足を踏み入れた瞬間、私は思わず立ち止まった。舞台には照明のバトンが下ろされており、まばゆい光が、そばにある黒い袖幕の布目を浮かび上がらせている。床に置かれたケーブルやスピーカーの影が、意外に濃く伸びている。暗がりの中にいろんなものたちが静かに息をしているようだった。何かの生き物の体内に入り込んだ感覚。


 客席に目を凝らすと、上手で音響スタッフの人が黙々とミキサー卓を調整していた。指先が滑らかに動くが、表情はほとんどうかがえない。照明スタッフはライトの角度と配置、色を調整している。カチリ、カチリと金具の音が響く。その動きには、無駄なところが一つもない。プロの真剣さをヒリヒリと感じた。


 舞台の上には、さまざまな色のバミリテープが既にいくつも貼られていた。後で副部長さんに聞いたら、学校ごとに色が決まっているそうだ。私は、テープの点と点を結びあげ、物語の世界が形づくられる様子を想像していた。テープは混沌と秩序が同居しているような、不思議な美しさがあった。


 少し遅れて入って来た先生が、「舞台に上がってみようか」と言った。私は「はい」と返事をしたつもりだったけど、声がちゃんと出ていたかどうか自信がない。足が少し震えている。なんだ、この震えは?


 照明スタッフを気遣いながら舞台に一歩踏み出すと、客席には暗闇が広がっていた。けれど、その見えない空間の奥に、無数の視線が潜んでいるような気がして、背筋がぞくりとした。


「これが、舞台……」


私が思わずつぶやくと、隣にいた影山先輩が笑った。


副部長「そう。ここが、私たちの戦う場所……」

部長「思いを伝える場所……」


副部長さんは部長さんの方に、そっと微笑を投げた。


 私は、胸の奥がじーんと熱くなっていた。怖い。でも、嬉しい。不安。でも、少しの快感。


 舞台の匂い、暗がり、スタッフの動き、雑然とした美しさ……それらすべてに、私の心は握りしめられたようだった。これまで何人の人が、どんな思いを抱いて、この舞台に上ったのだろう。


 私は思っていた。

 十年前のあの時に欠けてしまった私の心を、この舞台は補ってくれるかもしれない。

 そう、私はここに立ちたかったのだ。




#小説

#高校生

#東日本大震災

#演劇部





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