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すっかり夜闇が世界を覆い尽くしていた。
コンビニに寄ってから海岸までに着くと、伝言通りエイリはそこにいた。
夏祭りの方向とまるで反対の海岸には彼女以外誰の姿もなかった。
エイリは裸足で波打ち際に足を踏み入れながら、物思いに耽るように水を蹴っていた。
「待たせたな」
そっと声をかけると、彼女は微かに唇を緩めて「遅かったですね」と返した。
「なんですか、それは」
僕は片手に持ったそれをこれみよがしに掲げてみせた。
それは手持ち花火の袋だった。
悪戯代わりに思いついてコンビニで買ってきたものだった。
「いいじゃないか、こんなの子どもの時以来だろ」
エイリはしばらくこちらを睨んでいたが、やがて溜息を吐いて答えた。
「わかりました、付き合います」
意外にもすんなりと彼女は応えてくれた。
花火とライターは買ってきた。
空になったペットボトルに海水を汲んで、僕たちは花火に火をつけ始めた。
その時、視界の隅で上空に光が走ったのが見えた。
次いで、何か炸裂するような大きな音が聞こえた。
「花火大会、始まったらしいな」
「そうみたいですね。まあ、興味は湧きませんが」
「ああ、それに僕たちにはこれで十分かもしれない」
次々と空を彩る巨大な花火を背中にして、僕たちは矮小な手持ち花火に火をつけていく。
手の届かない圧倒的な美しさよりも、目の前の小さな綺麗さの方が僕たちには性に合っているように感じた。
数本を両手に取って振り回して遊んだ。
エイリは目くじらを立てて「やめてください」と言うと、僕よりも多くの花火を持ってこちらに向けてきた。
色彩に彩られた光のアーチが黒い海岸沿いを照らした。
僕たちは笑い合った。
辺りに火薬の匂いが充満して、子供の頃の夏の記憶を蘇らせた。
それから、一本しか入っていない噴き出し花火の光を遠くから眺めた。
やがてあらかたの花火を燃やし尽くし、手持ちは線香花火のみになった。
向かい合いながら、僕たちはつまんだ藁のような花火の先に火をつけた。
パチパチと音を鳴らしながら芒のような火花が弾けた。
「まさかこんな風に、君と花火で遊ぶ日が来るなんて思わなかった」
妙に感慨深くて、ぽつりと言った。
エイリは「馬鹿にしているんですか?」と罰が悪そうに僕から視線を外して答えた。
「そうじゃないよ。でもそうだ、君はやっぱり変わらないな」
そのタイミングで火がぽっと地面に落ちた。
エイリはしばらく黙って僕を睨んでいたがやがて小さい声で言った。
「あなたに私の何が分かるって言うんですか」彼女の言葉はやはり刺々しかったが、最初に出会った頃のような憎々しいものではなくなっていた。
そして、もう一本の線香花火にそっと火をつけた。
「あのさ、もしかしたらこれからとんでもなく見当違いなことを言うかもしれない。笑いたかったら笑って構わない。でも僕はあくまで真剣だ。そのことを理解していてくれ」
エイリのこちらを疑うような視線を受け止めたまま、僕は言った。
「……もしかしたら、僕は君に恋をしているのかもしれない」
彼女は眉間を顰めて、「はあ?」と大きい声で答えた。
それは僕だって予想していた反応だった。
僕だって自分が放った言葉の白々しさに身震いするほどだった。
「単に吊り橋効果、あるいはストックホルム的な勘違いの産物でしょう?」
エイリは微かにあくまで冷静にすかさず僕は語り出す。
「その可能性も否めないさ。僕だって混乱しているんだ。ただでさえこの一カ月で色々なことが起こった。こんなことを、君に伝えておいて僕だって確証が掴めていないんだ」
エイリはしばらく視線を逸らしていたが、やがて震えるような声で言った。
「あなたには、今も忘れられない大切な人がいたんじゃないんですか?」
「それだ。僕は今まで生きてきてその人以外に好意を抱いたことなんてなかった。恋よりも先に愛があった。だからこの思いが、本当に恋なのか分からない」
「難儀な話ですね」と、半ば呆れたようにエイリが言った。
僕はふと何の気なしに尋ねた。
「なあエイリ、愛って何だと思う。かつて僕の大切だった人が口癖のように言っていた。
『愛は自己犠牲によってしか証明されない』」
その言葉を聞いてエイリはしばらく固まっている様子だった。
やがて、絞り出すように答えを返した。
「意味は分かります。そして、その言葉はきっと正しい。人は朝に愛を囁いたその口で、夜に別の誰かを口説く。だからこそ、ただ己の利害を排した自己犠牲だけが愛たり得る。……でも、その考え方はやっぱりどこか歪んでいる、とは思います」
「ああ、そうかもしれない。僕もここ最近はそう思うようになってきた。それは何というか、とても独りよがりじゃないか? だって、人は理屈で愛し合う生き物じゃない」
「そう言うと思っていましたよ。その格率が適用されれば人を愛することはつまり、愛する相手が傷つくことを望むことと同義となるのですから。それは深まれば深まるほど愛する人を傷つける破滅的な思考です」
「だけど」エイリは一拍置いて、空を仰ぎながら言葉を紡いだ。
「それは選ばれた側の、誰かに愛される権利を持った人間の理屈にすぎない。突き詰めた論理だと知っていても、それを手に取るしかなかった人間もいる。だから私にはその間違いを否定することはできない」
静かな口調だったが、その言葉には得も言われぬ力強ささが込められているようだった。
僕はその言葉の意味を考えてみたが、その深い意図を理解することは叶わなかった。
「それは僕には分からないことなのか?」
「ええ、あなたには絶対に分からない」
彼女はきっぱりと答えた。
その言葉には反論を許さない無言の圧が込められていた。
「僕が嫌いだから言っているわけではないんだろ?」
視線を伏せて花火を眺めながら、エイリは小さく首肯した。
「なんにせよ、あなたの感情は勘違いや錯乱の類でしょう。これまでのお人好しな人生が仇になったとしか言いようがない。これに懲りたら、自分の生き方を見直してみるべきだと思いますよ」
「ああ、とりあえず納得した」
そのタイミングで花火の蕾が二人同時に落ちた。
ぼうっとした暗闇と波が寄せて返す音が僕たちを包む。
「でも、どうしても思うんだ。
もしも僕が〈脳錠〉持ちなんかじゃなければ、もしも君が普通の女の子だったら、ただ普通に出会って君に恋をしていたかもしれないって」
「その言葉は狡いものだと分かりませんか?」
エイリはしばらく俯いて黙っていたが、唐突に答えを出した。
「心配しなくても大丈夫です。もうすぐ全部に蹴りがつく。それであなただってきっと救われる」
意味深にそれだけを呟くように言って、彼女は再び押し黙った。
「なあ、エイリ」僕は思い切って口を開く。
彼女の抱えているものの一切合切を問い質そうと思った。
「……ねえ、望月さん。東京行きの電車であなたの恩人が言っていましたよね。人は倫理――モラルという独我の限界を超えることができない。だけどその壁を越えうるものが愛だって。あの人の言葉の真意が今は分かる気がするんです」
頬を緩めながら、僕の言葉を制するようにエイリは言った。
それは彼女の口から聞いたことのないぐらい軽妙で、希望に満ちた言葉だった。
「ああ、やっぱり君はただの殺人鬼じゃないよ。そうだな、あとで君の答えを聞かせてくれ」
「はい」とエイリは笑顔で答えると、立ち上がった。




