裕香襲来
脳の状態も問題なく、記憶の混乱もないため、退院した。
久々の家でやんちゃになってきた翔に頭を叩かれないように、注意しながら一緒に遊んでいるとチャイムが鳴った。
机の上にあるインターフォンの子機を見ると、裕香がいる。
おかえり願おうかと思ったが、後が怖いのでインターフォンの子機でドアの鍵を開ける。
「やっと退院したのね。これ退院祝いよ」と包みを俺に渡す。
「ありがとう」
「日本茶がいいわ」
「は? もしかして、退院祝いと言いながら、食べる気で買ってきたのか?」
「いいじゃない」
「まぁな」
俺たちの会話を聞いていた紬がキッチンでお湯を沸かす。
「日本に帰ってきていたんだな」
「遥翔に建築をお願いしたいと思ったけど、応答がないから、私から逃げていると思って戻ってきたの」
「はぁ。そうですか」
紬が日本茶をお盆に入れて持ってきたら、裕香は自分で退院祝いの包みを無造作に破き中身を取り出し、包みを開いて一口食べた。
「うん。こんなもんね。食べなさいよ」
「裕香、この和菓子、重箱に入っているぞ。高いんじゃないか?」
「宮内庁御用達の漆器だとか、ジョブズも来たとか孝也が言っていたけど、知らないわ」
「孝也さんが選んだのか。で、孝也さんは?」
「アメリカかなぁ? 知らない」
裕香は紬を見て、「紬さんも食べて」
「ありがとうございます。この赤坂もちって… これ、赤坂青野ですか?」
「知らないわ。おいしいならどこでもいいじゃん。それより、私、ナパバレーのワイナリーを買ったの」
「は?」
裕香はいつも自分の言いたいことを言うから、話が飛ぶ。
「そこの建物が古くて建て直す必要があるの。遥翔、設計してよ」
「無理だ」
「どうして?」
「アメリカの建築の資格が俺にはない」
「取ればいいじゃない?」
「簡単に言うなよ。National Architectural Accrediting Boardの学位が必要で、Architect Registration Examinationの試験に合格必要だったと思うぞ」
「ふーん。じゃ、遥翔が設計して資格がある人が承認すればいいんじゃない?」
「ま、それならいいかもしれないが… どうして俺なんだ?」
「あんた、入院していて大変だろうということもあるけど、靴を脱ぐ家にしてほしいとか、シャワー中心のバスルームって嫌ってのを説明して作ってもらっても、なんか違うのよ。わかるでしょ? 遥翔なら日本のことを説明する必要がないでしょ」
俺には長谷川さんの記憶があるからなのか、明確にイメージできる。
「そうだな。シャワールームとトイレが一体化しているところもあるしな。あれはちょっとな」
「そう。それにウォシュレットもないし、不便なのよ」
「なるほとね」
「じゃ、アメリカの設計士を用意するから、設計しなさい。だから、現地を見にきなさい」
「現地はナパバレーか…」
「遥翔、ナパバレーってどこ?」
「サンフランシスコの北側で、道路沿いにワイナリーが並んでいるよ。CIA at Greystoneというすごい料理学校もあるよ」
紬が少し怪訝な顔をして、「へぇ」と言う。
「詳しいわね。チケットやホテルは孝也に言って。じゃ、帰るわ」と裕香が言うと慌ただしく帰った。
ポツンと取り残された俺たちは顔を見合わせた。
「嵐のようね」
「あぁ」
「で、孝也さんって誰なの?」
「孝也さんは高校の先輩で、裕香の旦那さん」
「へぇ。高校の先輩と結婚かぁ。純愛だねぇ。いいわねぇ。すごいわ」
裕香がモテモテだったのを知っているからなぁ。
見た目と言動がまったく一致せず、実力がなきゃスパッと切り捨てる奴に付き合い続けることができる孝也さんの方がすごいと思うが、口には出さなかった。




