閑話:confabulation
「主人の寝言はかなり長谷川さんの記録に近いと考えられますし、パソコンの操作は知らないはずです。なぜ、このようなことが起きるのでしょうか?」
「近いだけで、完全に一致しているわけではないです。それにパソコンの操作はどこかで知っていたとは否定できません」と糸井先生が言う。
「そうですけど… これだけの状況を見れば…」
「糸井先生、confabulationの可能性は?」と里田先生が言う。
confabulationって何?
「confabulation… そうですね。現時点で矛盾の少ない考察ですね」
「あのう、confabulationとは何でしょうか?」
「confabulationは作話、すなわち作り話です。精神医学のconfabulationは患者が『だまそうとする意図がない』にもかかわらず、無意識に事実とは異なるエピソードや作り話を事実と信じている状態です。記憶がすっぽり抜け落ちた空白部分を、過去の別の記憶やその場の思いつきで無意識に埋め合わせようとして起こることがあります」
「じゃ、事故で記憶喪失になったから、それを埋め合わせようとつじつまをあわせていると?」
「はい。あくまで可能性です。里田先生が言ったのは検討であり確実ではないです」
「でも… その作り話の状況が現実ではないことを主人に教えれば、現実を思い出すのではないですか?」
「現実を教えることは、非常に注意深く行う必要があります。間違いを指摘しても、脳の障害で発生している症状のため、佐藤さんが混乱するだけになる可能性があります。徐々に現実と埋め合わせをする必要があります。急いではいけません」
「はい…」
長谷川さんが何か考えているように見える。
「長谷川さん? どうかしましたか?」
「…私はキーボード操作に引っかかりがあります」
「キーボード?」
「話を蒸し返すようで、申し訳ないのですが… どうしても気になるのです」
「何が気になるのでしょうか?」と糸井先生が言う。
「英語キーボードとJISキーボードの違いは少しと思われるかもしれませんが、我々にとっては大きな違いなんです。タイピングは無意識と言っていいぐらいで行います。ですから、ちょっとした違いでタイピングの速度が落ちます。佐藤さんは『@』もキーボードを確認せずに入力していました。それにコマンド入力もスムーズです。ネットで見たから知っていたからと言って、できることではないのです。何百回入力することにより身に付くものです」
「脳内で実際の動作が再現できれば、実際に肉体を動かすことはできます。何度も言いますが、confabulationは『矛盾の少ない考察』で、疑わしいことは多くあります」
「はい」
「里田先生、皆さんの前で診断ではないことを口走らないでください。皆さんが混乱します」
「すみません」
「佐藤さんへの対応は注意深くします。現在、看護師にも佐藤さんに名前で呼びかけないように注意していている状況です。佐藤さんの状況を確認しながら、佐藤さんが現実が受け入れられるように対応します。では、終わりにしましょう」
皆さんが席を立とうとしたが、私は長谷川さんに声をかける。
「長谷川さん、主人が操作したパソコンを私も操作したいのですが、よろしいですか?」
「いいですよ」
長谷川さんは私の前にパソコンを置いた。
「このウィンドウを選択してください」
私はマウスでウィンドウを選択した。
「historyと打って、リターンキーを入力してください。出てきたコマンドがご主人が入力したコマンドです」
私は上から順番に入力する。
「このviってどう操作するのですか?」
「『i』を入力して、適当に文字を入力してください。今は入力モードです。コマンドモードに戻るには『ESC』キーを押します」
え? コマンドモード?
「カーソルの移動は『h』を入力すると左、『j』を入力すると下、『k』を入力すると上、『l』を入力すると右に移動します」
「え? 何ですか?これ? 上下左右のキーを入力すればいいじゃないですか?」
「今は上下左右のキーでも動くようになっていますねぇ。viを作ったBill JoyはADM-3Aを使っていて、そのキーボードがそういう動作だったためと言われています。手を動かす距離が短いので慣れると速いですよ」
「そ、そうですか…」
これは、見ただけで操作はできないわね…
Bill JoyはviやCシェルを作りました。
BSD Unixの開発を行い、Sun社の創業時に入社します。
映画に出てくるようなマッドサイエンティストのような外見の人です。
スキーが大好きで滅多に出てこないらしいです。
公演でBill Joyが会場に来た時に、廊下ですれ違ったことがありますが、一瞬だったのでサインは貰えませんでした。




