閑話:遥翔の反応
私は糸井先生の診察室のドアをノックした。
「どうぞ」
「おはようございます。糸井先生」
「おはようございます。早速ですが、佐藤さんは目覚めました」
「では、会いに行ってよろしいでしょうか?」
「お待ちください。まず、現状をお知らせします」
「…はい」
何か良くないことを聞かされるのではないかと、私は身構える。
「佐藤さんは、ご自分の名前が思出せないようです。しかも、今は96年だと思っているようです」
「名前が思い出せない? 96年? 遥翔の生まれる前ですよ… なのに、今は96年って… 遥翔は自分のことを長谷川さんと思っているのでしょうか?」
「わかりません。これを聞いてください」
糸井先生は遥翔が目覚めた時の録音を再生した。
「遥翔は、自分のことを『健一』と言いかけたのではないですか?」
「断定はできません。現在は自分の名前がわかっていないようですが、気になっていないようです」
「自分の名前がわかっていない? 看護師さんが呼びかけたりしますよね? それでわかるのでは?」
「看護師には佐藤さんに名前の呼びかけはしないように厳命しています。それに、佐藤さんの体の状態で動き回ることができません。ですから、意図せず情報封鎖の状態になっています」
「え? でもさすがにスマホは要求するでしょうし、スマホがあれば情報封鎖なんてできないですよね?」
「スマホが病院内では禁止と思っているのか要求されていません。ちなみに96年にスマホはありません」
「あっ。ガラケーですね?」
「ガラケーもありません」
えー。96年って石器時代じゃん。
「…主人が自分が長谷川さんと思っているのか、佐藤と思っているのかはっきりしないと会えないのでしょうか?」
「佐藤さんを混乱させないように我々は呼びかけをしなかっただけです。佐藤さんと面会していただいて問題ありませんが、一つ、注意点があります」
「何でしょうか?」
「無理やり思い出させようとしないでください。もし、佐藤さんがあなたを見て思い出さなくても、その場は抑えてください。佐藤さんの混乱が大きくなる可能性があります」
「…わかりました」
「では…」といい、立ち上がった。
私は糸井先生についていくと、病室の前で止まる。
糸井先生はゆっくり私の方を向き、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「気持ちを落ち着かせてください。私が声をかけます。佐藤さんは声をかけないでください。ご主人がどんな反応をしても、大きな声や責めるようなことは決してしないでください」
「はい」
糸井先生はドアをノックする。
すると、病室から「はい」と声が聞こえる。
遥翔の声だ。
私は糸井先生に続き部屋に入る。
「お加減いかがですか?」
「よくはないです…」といい、遥翔が私を見る。
私は期待を込めて遥翔が何を言うのか待ち構える… が、少し不思議な顔をしただけで私に対して何も言わない。
遥翔は私を覚えていないのね。
私は遥翔に声をかけようとすると、糸井先生が手のひらを私の方に向けた。
「良くないとは、気分が悪いとか、どこか痛いということですか?」
遥翔は糸井先生を方を見て「気分は普通です。痛い箇所がわからないぐらい痛いです」
痛い箇所がわからないぐらい痛いってどういうこと?
「看護師がマッサージをしたと思いますが、手足はどうですか? 動きますか?」
「…少しは…」
遥翔が手足を動かそうとして痛いのか、表情が変わった。
見たことがない遥翔の表情だなぁ…
「そうですか。マッサージをしてリハビリを頑張りましょう」
「…はい」
「何か思い出したことはありますか?」
「いいえ」
「何か思い出したり、気になったことがあれば、呼び出してください」
「わかりました」
「では、また参ります」
「ありがとうございました」
糸井先生が私の方を向き、目で合図をする。出ろってこと?
えー。話せないの?
私は糸井先生の後ろについて部屋をでる。




