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仁義なき異世界狂想曲(ラプソディー) ~渡る渡世は修羅ばかり~  作者: しおぽん
第1章 手を繋ぐ者たち

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プロローグ 後編 血と雨は、同じ匂いがする



 路地を抜けた瞬間、空気が変わった。



 雨の音だけが残る


 それ以外が、消える


 風がない


 ネオンもない



 サイレンも、街の気配も、全部が遮断されたように消えていた。



 ─あるのは、雨だけだ



 アスファルトを叩く、単調で容赦のない打撃音だけが、この空間を満たしていた。


 路地の両側に古びたコンクリートの壁が立ち、その表面を雨水が黒く濡らして流れていた。


 壁の染みが、ネオンの光の届かないこの場所では、ただの暗い染みとして沈んでいた。


 だが、龍司の皮膚は知っていた。




 ─いる




 視線ではない


 足音でもない


 ただ、空気の密度が違う。


 息をしている何かが、複数、この暗がりに溶け込んでいる。


 その気配が、濡れた夜の中に確かにあった。


 獣が草原で敵を察知するような、理屈より先に体が知るような、そういう感覚だった。


 龍司はそれを、長い年月をかけて研ぎ澄ましてきた。




 ──生き延びるために




 それ以外の理由は、なかった。


 二十八歳の秋に銃弾を受けてから、この感覚はより鋭くなった。


 恐怖が研いだのか、喪失が研いだのか、龍司には分からない。


 ただ、あの入院から戻ってきた龍司は、何かが変わっていた。



 それを周囲の人間は「凄みが増した」と言った。



 龍司自身は、何かが削れたと思っていた。



「―― 来るぞ」



 声に出した瞬間、暗がりが動いた。



「親父!!」


「後ろ――!!」


 振り返る。


 銃口があった。



 夜の中で、それだけがはっきり見えた。


 黒い筒の先が、龍司の腹に向けられていた。



 距離は三メートルもない



 雨粒が銃身を濡らしている



 引き金にかかった指が、白く浮いていた。


 見知らぬ顔だった


 外国人だった


 その目に、感情はなかった。


 仕事として引き金を引く目だった。



 火花



 ――”ドン”



 衝撃が腹を貫いた。


 熱ではなく、殴られたような鈍い圧力として最初に感じた。


 それが何であるかを理解するより先に、体は動いていた。



 翔を掴む


 地面に叩き伏せる




 ”弾丸”が頭上を裂いた




 空気が破れる音がした。


 半センチ上を通ったかもしれない。




 だが── 今はそれでいい




 腹の奥で、じわりと熱が広がり始めていた。



「……何やってんだ」



 自分でも驚くほど、平坦な声が出た。



「す、すみません親父……!」



 翔の声が震えている


 体も震えている


 地面に伏せたまま、龍司の腕を掴んでいた。


 その手の力が、異様に強かった。



「引っ込んでろ」



 短く言う


 それだけ言えば分かる。


 翔はそういう男だ。




 血が流れていた──




 腹の右側。




 スーツの内側で、じわじわと広がっていくのが分かった。



 熱い


 重い



 呼吸をするたびに、その熱さが少しずつ増していく。


 龍司は一度だけ、その感触を確かめるように息を吸った。



 肺ではない


 深くはない



 ── まだ動ける



 そう判断した。


 それだけで十分だった。



「……親父」


「ああ?」



 翔の声が、また変わった。


 さっきとも違う。


 乗り込む前の、あの路地での声とも違う。


 もっと深いところから来る声だった。



「俺さ」



 息を吸う


 雨が顔を打っても、目を開けたままだった。



「もし生きて帰れたら」



 笑う


 その笑い方を、龍司は初めて見た気がした。


 いつもの翔の笑いではなかった。


 明るくもなく、大げさでもなく、ただ静かに、少しだけ歪んだ笑い方だった。


 泣くことを忘れた人間が、それでも何かを手放したくなくて笑うような、そういう顔だった。



「ちゃんとした人間になります」



 今度は、はっきりと言った。



「普通に、生きてみたいっす」



 その言葉は、さっきよりも重かった。


 路地での言葉は、どこか問いかけのような柔らかさを持っていた。



 だが── 今のそれは違う



 血の匂いの中で、雨に打たれながら、地面に伏せたまま言った言葉は、もう願いではなかった。



 誓いに近い”何か”だった



 龍司は、その言葉を全部受け取った。


 受け取って、胸の中に仕舞った。






 ”お前は生きろ”






 そう思った。


 この男は、生きなければならない。


 普通に働いて、普通に飯を食って、普通に笑って生きる。


 それをこの男にさせなければならない。


 それだけが今、龍司の中で燃えていた。


 美咲も、そう言っていた。


 助けに来るなと言った夜、怯えてはいなかった。




 ただ──




 はっきりと言った。




 ”── 来なくていい”




 龍司は、動けなかった。


 動くべきではないと分かっていた。


 頭では分かっていた。


 それでも足が、震えた。


 生まれて初めて、判断と感情が真っ二つに割れた夜だった。




 ── 正しい選択をした




 それが龍司の傷だった。



「……いいか」


「……はい」


「次は、もうちょい賢く生きろ」



 短く言う



 次は──



 その二文字に、全部を込めた。


 お前には次がある


 お前は生きて帰れ


 そういう意味を、龍司は言葉の形にできなかった。



「……生きろ」



 その一言だけ。


 それが龍司に言える、精一杯だった。






 ―─―”パン”






 今度は胸だった。


 衝撃が体を貫いた。



 腹とは違う


 もっと深い


 もっと中心に近い



 視界が、一瞬だけ白くなった。




 その白さの中で──




 何かが、ズレた。


 白さではなかった。




 白というより、輪郭が曖昧になる感覚だった。


 世界の境目が、薄くなる感覚。


 自分と路地の間にあるはずの距離が、一瞬だけ消えた。


 倒れているはずなのに、落ちている感覚がない。


 どこかへ引かれているような。引力の方向が、狂ったような。




 ── 雨の音が遠くなった




 正確には、遠くなったのではない。


 雨の音は聞こえている。


 だが、その音が届いてくる方向が、おかしかった。



 上からではない


 横からでもない



 どこか、隙間のような場所から滲み込んでくるような音だった。



 それでも




 一歩、前へ──




 足が動いた


 体が動いた



 倒れる前に、翔を覆うように崩れた。


 最後まで、それだけを考えていた。




 ── この体を盾にする




 それだけでいい


 地面が体を受け止める。




 雨が顔を打つ


 ── 冷たかった




 雨粒が、一粒一粒、頬に当たるのが分かった。


 痛みが引いていくにつれて、感覚が妙に研ぎ澄まされていく。


 雨の匂いが、鉄の匂いが、アスファルトの冷たさが、全部が同時に押し寄せてくる──






 ”血と雨は、同じ匂いがする”






 今はそれが、はっきりと分かった。


 十年前の病室の匂いと、今夜の路地の匂いが、龍司の中でひとつになった。




 空が見えた



 ── 夜空だった




 雲が低く垂れ込め、ネオンの光を受けてぼんやりと滲んでいた。


 雨がそこから落ちてくる。


 終わりなく、単調に、何も考えずに落ちてくる。




 ── 綺麗だと思った




 こんな夜に、そんなことを思った。


 美咲との夜も、雨が降っていた。


 病室の窓から見た雨と、今夜の雨と、どこかで繋がっている気がした。


 あの夜から龍司は、雨を見るたびに美咲のことを思った。


 思って、胸の奥に押し込んだ


 押し込んで、また思った


 それを十年、繰り返した






 ”ちゃんと、治してください”






 その言葉だけが、ずっと消えなかった。


 だが今は、不思議と穏やかだった。




 そのとき──




 雨が、止んだ


 止んだわけではない。降っている。


 降っているはずだった。


 だが、音がしなかった。


 アスファルトを叩く音も、頬に当たる感触も、全部が一瞬だけ、消えた。




 ── 静寂だった




 完全な静寂だった。


 この路地に、この夜に、あり得ない種類の静寂だった。


 翔の声も聞こえない。


 自分の心臓の音も聞こえない。


 ただ、何もない。


 この世界から音という概念が、一瞬だけ抜け落ちたような。


 それが、どれだけ続いたのか分からない。



 視界が、歪んだ


 白ではない


 歪みだった



 水たまりに映る景色が滲むような、雨越しに見る街の輪郭が溶けるような、あの歪み方に似ていた。




 ── だが、違う




 これは外側の話ではない。


 龍司の視界そのものが、端の方から崩れ始めていた。


 まるで、この世界という紙の端を、誰かが内側からゆっくりと折り曲げているような。




 ”何かが、いる”




 そういう確信だった


 気配ではない


 敵の気配なら、龍司は知っている。



 殺意なら、分かる


 これは違う



 何かが、ただそこに在る。


 この路地に、この雨の夜の裂け目に、何かが在る。


 龍司を見ているのか、見ていないのかも分からない。




 ただ── 在る




 視界の端が、さらに崩れる。




 ── 引かれる




 落ちる感覚じゃない。


 押される感覚でもない。


 ただ、この世界から何かに引かれていく感覚だった。


 強引ではなかった。


 むしろ、当然のことのように。


 まるで水が低い方へ流れるように、龍司という存在が、今いる場所とは別の場所へと、静かに移動し始めているような。




 ── 意識が沈んでいく




 最後に思ったのは、路地のことだった。


 雨の中で翔が言った言葉。






 ── 俺、あんたのこと、”カッコいい”って思ってるんすよ






 バカか、と思った。


 だが──




 少しだけ、救われた気がした。


 美咲にも、翔にも、見てもらえた。


 この手で何をしてきたかを知りながら、それでも見てくれた人間が、いた。


 ちゃんとした人間かどうかは分からない。


 最後まで分からなかった。


 だが、そう思ってくれた人間が、確かにいた。


 それだけで、十分だった。




 ── 雨の音が戻ってくる




 遠くから、ゆっくりと。


 まるで別の場所から聞こえてくるように。


 雨の音が、戻ってくる。


 だがそれは、もう同じ雨ではなかった。


 同じ音で、同じ冷たさで、それでも何かが違う。


 この雨は、あの路地の雨ではない。


 やがて、意識が消えた───






 翔は、その夜のことを一度も人に話さなかった。


 誰かに聞かれても、黙っていた。


 何があったかを知っている者も、やがて減っていった。


 街が変わり、顔ぶれが変わり、あの雨の路地を知っている人間は、少なくなっていった。


 それでも翔は、雨が降るたびに立ち止まった。


 フードを被らないまま、雨に顔を晒した。


 普通に生きると、誓った夜のことを、思い出していた。


 その誓いを守れたかどうかは、翔にも分からなかった。


 ちゃんとした人間というものが何なのか、最後まで答えは出なかった。


 ただ一つだけ、確かなことがある。



 あの男の”背中”を、翔は見た。



 誰も見ていないのに、損なことをする背中を。


 そしてそれを、カッコいいと思った。


 その気持ちだけは、本物だった。


 翔がその誓いを胸に抱えたまま、どれだけ生きたのかは、誰も知らない。


 雨が降るたびに龍司を思い出したことも、誰も知らない。






 ─── 雨が降る






 ”血と雨は、同じ匂いがする”






 二人は、その匂いの中で生きて、その匂いの中で消えた




 ただ── それだけが、残った




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