プロローグ 中編 血と雨は、同じ匂いがする
「……親父」
「あ?」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
笑い声が消えた
「俺、なんでここにいるんすかね?」
ぽつりと言う
冗談でもなく、軽口でもない声だった。
龍司は歩調を変えなかった。
視線も動かさなかった。
だが、聞いていた。
その声の質が変わったことを、ちゃんと感じ取っていた。
「知らねぇよ」
「っすよね」
小さく笑う
だがその笑いは、さっきとは違う色をしていた。
明るさではなく、どこか遠くを見るような色だった。
「普通に生きてりゃ、こんなとこ来ないっすもんね」
視線を落とす
自分の足元を、水が弾ける地面を、見ていた。
雨が地面を叩く音が、やけに響く。
龍司は何も言わなかった。
言えることが、何もなかった──
”普通に生きていれば”
その言葉の重さを、龍司はよく知っていた。
あの病室の白い天井を、龍司は今も時折思い出す。
消毒液の匂いと、雨の音と、静かな声。
普通に生きることを、あの場所で一度だけ想像した。
それが今の自分にとって何を意味するのか、龍司はずっと答えを出せずにいた。
「俺さ……」
一歩、歩きながら
「ガキの頃、思ってたんすよ」
少しだけ照れたように笑う
翔が照れるのは珍しかった。
龍司は気づかぬふりをして、歩き続けた。
「普通に働いて、普通に飯食って」
息を吐く
その息が、冷えた空気の中で白く揺れた。
「普通に笑って生きるんだろうなって」
それは、ごく当たり前の願いだった。
何の変哲もない、誰もが一度は思い描くような未来だった。
だがその”当たり前”を口にするとき、翔の声には静かな痛みが混じっていた。
いつの間にか遠くなってしまったものを、手の中で確かめるような、そういう声だった。
龍司は、胸の奥で何かが動くのを感じた。
── 美咲も、同じようなことを言っていた
入院した当日の夜、窓の外に雨が降っていた。
美咲は点滴の確認をしながら、ぽつりと言った。
”普通って、難しいですね”
龍司が理由を聞くと、あの女は少し笑って言った。
「普通にしてたら、普通じゃないものが放っておけなくて」
その言葉の意味を、龍司はあとになってから理解した。
理解した頃には、もう遅かった──
「……なのに気づいたら」
翔が顔を上げる
「こんなとこにいる」
雨が強くなる
「……後悔してんのか」
龍司が聞く
「いや」
即答だった
「それがよく分かんねぇんすよ」
苦笑する
「怖ぇし、痛ぇし、ろくでもねぇのに」
少しだけ間を置いて
「……やめようって思ったこと、ないんすよね」
その言葉は、本音だった。
龍司は黙っていた。
返す言葉を探したが、見つからなかった。
ただ、その言葉が自分の中にするりと落ちていくのを感じた。
水が地面に染み込むように、静かに、確かに。
やめようと思ったことが、ないのか。
龍司は自分に問いかけた。
答えは── 出なかった
「なんでだと思います?」
「知らねぇって言ってんだろ」
「っすよね」
また笑う
だが今度は、少しだけ静かだった。
風が雨を横に流した。
二人の間を、濡れた空気が通り抜けていった。
「でも一つだけ、分かってることあって」
龍司を見る
「親父がいるからっす」
迷いのない目だった。
龍司は、何も言わなかった。
「俺、一回だけ見たことあるんすよ」
雨音の中で、声が少し低くなる
「親父が、他所のガキ庇ってボコボコになってるとこ」
龍司の記憶が、一瞬だけ動いた。
いつのことか、すぐに分かった。
あの路地──
夏の夜だった。
雨ではなく、むせ返るような熱気の中だった。
ガキの頃、見知らぬ子供が、見知らぬ男たちに囲まれていた。
ただそれだけのことだった。
特別な理由はなかった。
気づいたら動いていた。
それだけだった。
誰かに見られていたとは── 知らなかった
「誰も見てねぇのに」
翔が言う
「クソほど損なことしてるのに」
一歩近づく
「それでも、やるんすねって思って」
息を吐く
その息に、雨の匂いが混じる。
土と、鉄と、夜の匂い。
「それ見たとき思ったんすよ」
一瞬だけ、照れる
「……ああいうのが、”ちゃんとした人間”なんだろうなって」
雨が、二人の間に降り続ける──
龍司は、自分の手を見た。
無意識に、視線が落ちていた。
カッパの袖から出た、濡れた手。
── 大きな手だった
傷の痕がいくつかある。
爪の縁に、雨水が溜まっている。
この手で何をしてきたか、龍司は知っている。
”ちゃんとした人間”
その言葉と、自分のこの手とを、どうしても結びつけられなかった。
美咲は、この手を見て何を思っただろう。
包帯を巻き直しながら、この手を両手で包むように持って、あの女は一度だけ言った。
”ちゃんと、治してください”
それだけだった。傷の話なのか、それ以外の話なのか、龍司には分からなかった。
分からないまま、退院した。
分からないまま、あの女は──
だが翔は、そう言った。
迷いなく、そう言った。
「だから」
少しだけ視線を逸らして
「こんな生き方してるくせに」
苦笑する
「俺、親父のこと……」
一瞬だけ迷って
「……カッコいいって思ってるんすよ」
言い切った
── 雨が降る
龍司は、何も言えなかった。
矛盾している。
普通に生きたいと言いながら、普通じゃない道を選んでいる。
ちゃんとした人間に憧れながら、血の匂いのする場所に立っている。
だが、その矛盾の中にこそ、翔という人間がいた。
綺麗に整合のとれた言葉より、ずっと本物だった。
龍司は、胸の奥に押し込もうとした何かが、うまく収まらないのを感じた。
認めてほしかったわけではない。
見ていてほしかったわけでもない。
── ただ生きてきただけだ
それでも、誰かに見られていたということが。
静かに、重く、胸の中に落ちた。
── 美咲にも、見られていた
あの病室で、あの静かな目で。
ヤクザだとか、黒崎組の組長だとか、そういうことを全部飛び越えて、ただ一人の人間として見られていた。
それが龍司には、怖かった
怖くて、目を逸らした
逸らし続けた
── そして間に合わなかった
「……バカか」
龍司は吐き捨てる。
精一杯の言葉だった。
他に出てこなかった。
これ以上引き受けると、何かが崩れる気がした。
だが──
わずかに、目を逸らした。
「……行くぞ」
「はい、親父」
その返事は、やけにまっすぐだった。
二人は歩き出す。
雨はまだ、叩きつけるように降り続けていた。
ネオンが滲み、水たまりが揺れ、鉄の匂いが濡れた空気に溶けている。
サイレンは遠く、靴の底から振動が伝わり、冷えた水がスーツの内側へと染み込んでいく。
龍司は、前だけを見ていた。
暗い路地の奥へ──
雨の向こうへ──
翔が、隣にいる
それだけが、今この瞬間の全てだった。
美咲のことは、翔には話したことがない。
話す必要もなかった。
話せる言葉が、龍司の中にはなかった。
ただ一つだけ、龍司が知っていることがある。
あの夜、あの女は助けに来るなと言った。
大勢を巻き込むことを、あの女は望まなかった。それは正しかった。
龍司も、全体を見れば分かっていた。
分かっていた上で、動けなかった。
── 動かなかった
それが正しかったのか、今も分からない。
ただ、雨が降るたびに思う
あの病室の消毒液の匂いを
静かな声を──
”ちゃんと、治してください”という言葉を




