プロローグ 前編 血と雨は、同じ匂いがする
雨は、叩きつけるように降っていた。
空から落ちるというより、地面に向かって押し潰してくるような雨だった。
粒が大きい
重い
鋭い
アスファルトに当たるたび、鈍い音を立てて弾ける。
まるで誰かが上から砂利を撒き続けているような、絶え間ない打撃音だった。
音というより、暴力に近かった。
── 街のネオンが滲んでいる
赤も青も黄色も、すべてが水たまりの中で混ざり合い、形を失っていた。
踏み込めば、色が砕ける。
だがすぐにまた、元の歪な光に戻る。
何度踏みにじっても、消えない。
滲んだまま、歪んだまま、それでも光り続ける。
この街に似ている、と龍司は思った。
思って、すぐに忘れた。
そういうことを考える習慣が、自分にはない。
湿った空気の中に、鉄の匂いが混じっていた。
雨独特の、土と埃が溶けたような匂いではない。
もっと鋭い
もっと生々しい
この街の裏側に積もり続けた何かが、雨に押し流されて滲み出てくるような、そんな匂いだった──
”血と雨は、同じ匂いがする”
いつからそう思うようになったのか、龍司は正確には分からない。
ただ一つだけ、はっきりと覚えている夜がある。
── あの病室の夜だ
── 二十八歳の秋だった
外国人マフィア組織との抗争の最中、龍司は銃弾を受けて入院した。
若頭補佐に就任して間もない頃だった。
組の人間は誰も表立って見舞いに来られない。
病室は静かだった。
消毒液の匂いと、点滴の滴る音と、窓の外の雨の音だけがあった。
── その夜も、雨が降っていた
美咲が、夜勤で入ってきた
担当の看護師だった。
小柄で、声が静かで、龍司が何を言っても動じなかった。
ヤクザの患者に怯えるでも、媚びるでもなく、ただ淡々と、しかし丁寧に仕事をする女だった。
龍司が「俺みたいな人間の世話をしても、いいことなんてねぇぞ」と言ったとき、美咲は少しだけ考えてから言った。
「患者さんに、いい人も悪い人もありません。痛いものは痛いんですから」それだけだった。
龍司は、その言葉が忘れられなかった。
退院するまでの数週間、龍司は初めて普通の時間というものを知った。
朝に白い天井を見て、昼に窓から空を眺めて、夜に消灯を告げられる。
それだけのことが、不思議と悪くなかった。
美咲が検温に来るたびに、龍司は何かを言おうとして、言えなかった。
普通に働いて、普通に飯を食って、普通に誰かの隣にいる。
そういう生き方を、自分はできるのだろうかと、あの白い天井を見ながら一度だけ思った。一度だけ──
だが退院した日、龍司はその想像を病室に置いてきた。
置いてきたつもりだった。
遠くでサイレンが鳴っているが、この雨に削られて、やけに遠い。
── 別の世界の音のようだった
龍司は前だけを見た
先にある路地の暗がりを
雨だけが音を立てている、その奥を──
龍司は、カッパのフードを被っていなかった。
黒いスーツの上に羽織った無骨な雨合羽。
水を弾くはずのそれも、すでに限界まで雨を吸い込み、重くなっていた。
肩口から伝った水が、スーツの襟へと染み込んでいく。
冷たさが、鎖骨の内側まで這い込んでくる。
だが、気にする様子はない。
気にしない、というより、気にするという行為を忘れていた。
こういう夜は何度も越えてきた。
雨に打たれることも、冷えることも、濡れたスーツが皮膚に貼り付く感触も、全部が慣れ切った感覚として体の奥に刻み込まれている。
不快ですらない
ただ、そういうものだと知っている。
龍司は、前だけを見ていた。
先にある路地の暗がりを。
薄いネオンの光が届かない、雨だけが音を立てている、その奥を──
この先に何があるかは分かっている。
それでも足は止まらない。
止め方を、とうの昔に忘れた。
隣で、翔が笑った。
「親父、今日の相手マジでキナ臭いっすよ」
翔も同じようにカッパを着ている。
だがフードは外したまま、雨に顔を晒していた。
前髪から水が滴り落ち、それでも気にせず笑っていた。
その顔には、場違いなほど明るい色があった。
「この前の連中よりタチ悪いって話です」
「お前の勘は当てにならねぇ」
「いやいや今回はマジっすって。俺こういう勘だけは――」
「外してばっかだろ」
「ひでぇなぁ!」
翔は肩を竦めて、大げさに笑う。
声がよく通った。
雨音の中でも、その笑い声だけはやけにはっきり聞こえた。
この場所には似合わない笑い方だった。
これから血が流れる場所で、この男はどうして笑えるのか──
龍司はそれをずっと不思議に思っていた。
いや、もう不思議とも思わなくなっていた。
翔という人間が、そういう男なのだと、ただ知っている。
怖さを知らないわけではない
痛みを知らないわけでもない
── それでも笑う
前を向く
それがこの男の生き方だった
翔が龍司の組に来たのは、龍司が三十歳のときだった。
当時すでに龍司の名は、裏社会では広く知られていた。
”二十八歳で若頭補佐”
日本最大組織の直参として、その若さでその地位に立った男は、後にも先にも龍司だけだった。
憧れる者もいた
妬む者もいた
恐れる者はもっと多かった
翔は、憧れた側の人間だった。
最初から隠す気もなく、真っ直ぐにそれを言った。
龍司はそれが、どこか可笑しかった。
そして、どこか眩しかった
だが翔は、美咲のことを知らない──
龍司が三十歳で翔を迎えたとき、美咲はもういなかった。
龍司は何も言わなかった。
─── 黙って歩き続ける
アスファルトを叩く雨の音が、靴の底から振動として伝わってくる。
そのとき──
足元の水たまりに、ネオンの光が滲んでいた。
赤と青が混じり合い、ゆらゆらと揺れている。
龍司はその表面を、一瞬だけ見た。
水面の中に、自分の影がある。
雨粒が当たるたびに、揺れて、歪んで、また戻る。
当然のことだった
当然のはずだった
だが──
影が、止まった
水面は揺れている
雨は降っている
それなのに、影の輪郭だけが、一瞬、固まった。
まるで別の何かが水の中から押し返してくるような。
薄い膜の向こう側に、別の世界があるような──
一秒にも満たなかった
次の雨粒が水面を叩いた瞬間、影はまたいつも通り歪んで揺れた。
龍司は視線を上げた
翔はまだ笑っていた
雨は変わらず降っていた
── 何も、変わっていない
気のせいだ、と思った
気のせいにした
── そういう夜だった




