閑話 白髪の鬼人と、胎動する黒曜の森
残酷な描画ありますので、苦手な方はご注意ください。
冒険者ギルドの通達により、完全封鎖されたDランクダンジョン『黒曜の森』。
結城誠が、腹を空かせた名もなき少女を連れ帰ってから数日後。
誰も足を踏み入れることのなくなった最深部の淀んだ闇の中で、それは「音もなく」姿を現した。
「……」
黒曜石の岩肌が剥き出しになった広大な地下空間。
そこに立つのは、見上げるほどの巨躯を持つ『大男』だった。
暗闇の中でも発光しているかのように白い長髪。
血のように赤く、底知れない飢えと冷酷さを宿した双眸。額からは禍々しく天を突く二本の捻れた角が伸び、口元からは鋭い牙が覗いている。
その容姿は、数日前にこの森で結城誠と遭遇した『少女(凛)』と、酷似していた。
ただ一つ、少女と決定的に異なっていたのは、彼には明確な『自我』と『記憶』が存在していることだった。
「……ユト。どこへ行った」
大男は、地を這うような低い声で呟いた。
ユト。
それが、彼が探している同胞――あの少女の本来の名前であった。
大男がゆっくりと歩みを進める。
その巨大な気配を察知し、森の影からDランク魔物の群れが飛び出してきた。巨大な毒蜘蛛や、鋭い爪を持つキラー・ウルフたちだ。
だが、大男は迫り来る魔物たちに一瞥もくれなかった。
大男が横を通り過ぎた、ただそれだけであった。
魔物たちは大男から無意識に漏れ出す『圧倒的な魔力の重圧』に耐えきれず、自らの骨を軋ませて、次々とその場に瓦解していった。
大男は立ち止まり、足元に転がった血塗れの魔物の死骸を無造作に掴み上げ、頭から丸かじりにした。
「不味い。泥を噛んでいるようだ」
血肉を飲み込み、わずかに魔力を補給した大男は、自身の足元に広がる濃密な影に向かって手をかざした。
「出よ」
命じられた瞬間、影が泥のようにドロドロと沸騰し、そこから二つの人型が這い出してきた。
大男と同じ白い髪、赤い瞳、そして角を持つ二人組。一人は細身の男、もう一人は長身の女のようなシルエットをしていた。
「お呼びでしょうか、キバ様」
「ユト様の気配が、この階層から完全に消失しております」
召喚された眷属たちは、主である大男――『キバ』の名を呼び、恭しく跪いた。
細身の男が『シル』、長身の女が『ロビ』。キバが自身の魔力と血肉を分け与えて生み出した、彼の手足となる上位眷属たちである。
「ユトを探す。この不快な森の隅々までだ」
キバの命令に従い、彼らはダンジョンを彷徨い始めた。
遭遇する魔物を手当たり次第に殺戮し、その肉を喰らい、魔力へと変換する。
そしてキバは、蓄えた魔力を使って新たな眷属を次々と影から生み出していった。
最初はシルとロビの二人だけだった眷属は、十体、二十体と増え続け、やがては五十体を超える『小規模な軍隊』と呼べるほどの規模にまで膨れ上がっていた。
あてもなく、ただ蹂躙しながら森を彷徨う白髪の悪魔たち。
そんな彼らの歩みを止めたのは、前方から現れた『異質な気配』の集団だった。
「おい……見ろ、あのアレを……」
「馬鹿な……なんだあの数は! 報告にあった角の生えた亜人が、五十体以上もいるぞ!」
松明の炎に照らし出されたのは、完全武装した人間たちだった。
彼らは冒険者ギルド本部から極秘に派遣された『特務調査隊』。
Aランク冒険者をリーダーとし、Bランクの精鋭4名で構成された、新宿ギルドが誇るエリート混成チームである。
彼らの目的は、行方不明事件の調査と、必要であれば元凶の討伐だった。
「警戒しろ! 相手の魔力波長、ただの亜人じゃない……全員がAランク以上の魔物と同等、いや、それ以上だ!」
リーダーのAランク剣士が、冷や汗を流しながら大剣を抜く。
キバは、立ち止まったまま無表情に彼らを見下ろした。
「……ニンゲンか」
「キバ様。いかがなさいますか」
「邪魔だ。排除しろ」
キバが顎でしゃくると同時に、シルとロビが率いる五十体の眷属たちが、一斉に人間たちへと襲いかかった。
戦闘が始まる。
「陣形を崩すな! 魔法使いは後方から制圧射撃! 盾役は俺についてこい!」
特務隊のリーダーが怒号を上げ、激しい死闘の火蓋が切って落とされた。
Bランクの魔術師が放つ極大の炎の槍が、眷属たちを焼き焦がす。
Aランク剣士の神速の剣戟が、眷属の腕を切り飛ばす。
さすがはギルドが誇るエリート部隊であった。
彼らは絶望的な数と力に圧倒されながらも、一糸乱れぬ連携と、長年の経験に裏打ちされた死線での勘を頼りに、眷属たちの猛攻をギリギリのところで凌いでいた。
「おおおおおっ!!」
リーダーの大剣が、シルの配下である一体の眷属の首を斬り飛ばした。
同時に、魔法使いの放った雷撃が別の眷属の胸を貫き、黒焦げにして大地に沈める。
「ハァッ……ハァッ……! やったか!」
「こいつら、異常に硬いが……再生能力は高くない! やれるぞ!」
数体の眷属を打ち倒し、特務隊の顔にわずかな希望の光が差した。
いける。このまま連携を崩さずに各個撃破を続ければ、活路は開ける。
誰もがそう信じた。
――フッ。
静かな森に、微かな冷笑が響いた。
後方で腕を組んで立っていたキバが、つまらなそうに鼻で笑ったのだ。
「何を喜んでいる、ニンゲン」
キバがパチン、と指を鳴らす。
次の瞬間、特務隊の足元に広がっていた影が泥のように沸騰し、先ほど切り捨てたはずの数と全く同じ数の、新たな眷属たちがズルリと這い出してきたのだ。
「な……っ!?」
「無限湧き、だと……!? 嘘だろ、あの大男が召喚しているのか!?」
先ほど倒した下級兵は、ただの『捨て駒』に過ぎなかった。
キバの魔力が尽きない限り、この軍勢は永遠に補充され続ける。その絶望的な事実に気づいた時、特務隊の心は完全にポキリとへし折れた。
「シル、ロビ。下がれ。お前たちの遊戯にはもう飽きた」
キバが、ゆっくりと前へ出た。
「ひぃっ……!」
「くそっ、逃げろ! こいつは俺たちの手に負える相手じゃ――」
リーダーが撤退を叫ぼうとした、その言葉は最後まで紡がれなかった。
キバの姿がブレたかと思うと、次の瞬間には特務隊の陣形の中央に立っていた。
彼が右腕を軽く薙ぎ払う。
ただそれだけで、Aランクの魔法障壁ごと、魔術師と僧侶の上半身が消し飛んだ。
「あ……」
リーダーが呆然と声を漏らす間もなく、キバの手刀が彼の胸を貫き、その心臓を背中側から抜き取っていた。
瞬殺。
AランクとBランクの混成エリートチームは、キバが直接手を下してからわずか数秒で、ただの肉塊へと成り果てた。
「……脆い。ひどく脆いな」
キバは、手の中で脈打つAランク冒険者の心臓を、そのまま口へと運んだ。
鋭い牙が肉を噛み砕き、濃厚な血と魔力が喉の奥へと流れ込む。
「――――ッ」
その瞬間、キバの赤い瞳が驚愕に見開かれた。
美味い。
今までダンジョンで喰らってきた、泥水のような魔物の肉とは次元が違う。
ニンゲンという生物の血肉は、甘く、芳醇で、キバの胃袋の底にある飢餓感を強烈に刺激する『極上の美味』であった。
「……なるほど。これは、素晴らしい」
キバは口の周りを赤く染めながら、残りの死体も次々と貪り食った。
凄まじい歓喜と、魔力の充足感。
もっと狩る必要がある。もっとこの極上の肉を喰らい、我が軍勢をさらに強大なものにしなければならない。
だが、キバは血に酔う思考の片隅で、冷静に一つの事実に行き着いていた。
「ユト……お前も、この美味を知ったはずだ。ならば、なぜここからいなくなった?」
キバは、転がっている冒険者の衣服や、彼らが持っていた『地図』を見下ろした。
このニンゲンどもは、ダンジョンの奥深くから湧いて出たのではない。
この森の『上層』、さらにその『外側』からやってきた侵入者だ。
「……まさか、ユトはニンゲンどもに捕らえられたのか? あるいは、この極上の餌を求めて、自ら『外』へと向かったのか」
どちらにせよ、この最深部に留まっていてはユトを見つけることはできない。
キバは、血塗れの顔を上げ、ダンジョンの上層へと続く暗い通路を睨みつけた。
「シル、ロビ。全軍に告げよ」
キバの声に、五十体の眷属たちが一斉に平伏する。
「上層へ向かう。ユトを取り戻し、そして――あの美味なるニンゲンどもを、すべて我らの血肉とする」
最悪の決断が下された。
『黒曜の森』で、決して外に出してはならない災害が、ついに地上に向けての進軍を開始したのだ。
封鎖されたダンジョンの扉が内側から破られ、新宿の街が未曾有のスタンピード(ダンジョンブレイク)に呑み込まれるまで、残された時間はあとわずかであった。




