捕食者vsジャージの男
関東郊外、Dランクダンジョン『黒曜の森』。
名前の通り、黒く変色した不気味な樹木が鬱蒼と生い茂るこの迷宮は、昼間でも薄暗く、常にじめじめとした湿気を帯びていた。
「うわぁ……なんかスゲー気味悪いところだな。幽霊とか出そう……」
俺はドドンキの黄色い袋をガサガサと揺らしながら、森の奥へと足を進めていた。
一応、Cランクの調査任務ということになっているが、俺の服装はいつもの紺色ジャージだ。
『マスター、警戒を怠らないでください。このダンジョンの生態系、明らかに異常です』
(異常って?)
『本来この階層に生息しているはずのオークやキラー・ウルフの生体反応が、完全に「ゼロ」です。まるで、森中の魔物が何者かに根こそぎ喰い尽くされたかのような……』
トラ子の報告に、俺はブルッと身震いした。
「喰い尽くされたって……そんな大食いのバケモノが徘徊してるのかよ。絶対出くわしたくないな」
俺は魔法や便利な隠密スキルなんてものは一切使えない。
だから、息を潜め、背中を丸めて「抜き足、差し足」で泥棒のようにコッソリ進むという、超アナログな手段に出た。
これで森の端っこをコソコソと一周して、「何もいませんでした! 迷子になった冒険者も見つかりません!」と報告して帰るのが、本日の完璧なスケジュールである。
サクッ、サクッと慎重に枯れ葉を踏みながら歩くこと数十分。
ふと、森の開けた水辺のエリアに差し掛かった時、俺のアンテナが、前方の岩陰にうずくまる『小さな影』を捉えた。
「ん……? なんだあれ?」
俺は息を潜めて、そっと茂みの中から様子を窺った。
そこにいたのは、ボロボロの布切れを纏った、十代半ばほどの『少女』だった。
真っ白な髪に、血のように赤い瞳。そして何より目を引くのは、彼女の額から生えた二本のねじれた角だ。
「……子供? いや、角が生えてるぞ。コスプレか? それとも、亜人の迷子か?」
『マスター。あの少女から、膨大かつ極めて凶悪な魔力反応を検出しました。間違いなく、このダンジョンの異常事態を引き起こしている「元凶」です。行方不明になった冒険者たちも、おそらく彼女に……』
トラ子が警告する。
なるほど、あの子がこの森の生態系を荒らしている元凶か。
……って、待てよ?
「……マジか。この小さな子がベテラン冒険者を跡形もなく食ったっていうのか。
でもあんな華奢な女の子が? こんなDランクダンジョンで一人で生き残れるわけないだろ。
親とはぐれて、お腹空かせて泣いてる迷子にしか見えないぞ」
俺の目には、彼女が「迷子になって途方に暮れている可哀想な子供」にしか映っていなかったのだ。
どうしても放っておけない。
「おい、トラ子。ちょっと声かけてくる」
『マスター!? おやめください、対象は極めて危険――』
トラ子の制止を無視して、俺は茂みからひょっこりと顔を出した。
「おーい、そこの君。こんなところで一人で何して――」
バチィッ!!
俺が声をかけた瞬間、少女の赤い瞳が、ギラリと猛禽類のように俺を射抜いた。
「……ニンゲン。……美味しそうな、匂い」
少女の口から、ヨダレがポタリと滴り落ちた。
ドンッ!! と、彼女の足元の岩が粉々に砕け散る。
Aランク冒険者すら凌駕するかもしれない、恐るべき跳躍力と速度。
少女は四つん這いの獣のような姿勢で空を蹴り、一瞬にして俺の懐へと潜り込んできた。
「たべるッ!!」
少女が、両手の爪を鋭い刃のように変形させ、俺の胴体を真横から引き裂こうと薙ぎ払う。
(うおっ!? いきなり飛びかかってきたぞ!?)
常人なら認識することすら不可能な速度だったが、俺の前にはやはりスローモーションに見えていた。
(すげえパニックになって暴れてるんだな。落ち着かせないと)
「こらこら、危ないぞ」
俺は、飛んできた少女の両手首を、まるで駄々をこねる子供をあやすように、パシッと軽く両手で掴んで受け止めた。
ズバンッッ!!!!
俺が少女の突進を受け止めた余波だけで、俺の背後にあった直径3メートルはあろうかという巨大な岩塊が、衝撃波で粉々に吹き飛んだ。
「……え?」
少女の動きが、ピタリと止まる。
彼女の赤い瞳が、信じられないというように自分の拘束された両手首と、無傷で立っている俺の顔を交互に見比べた。
彼女の野生の直感は「絶対に両断した」と告げていた。だが、目の前の『獲物』は、微動だにせず自分の爪を受け止めている。
「あー、びっくりした。元気な子だなぁ!」
『マスター! 今の爪、鋼鉄の鎧ごと人間を三等分する威力ですよ! 全然「元気な子」のレベルじゃありません!』
(大丈夫だ、ただの癇癪だろ)
俺がヘラヘラと笑いながら手を離してやると、少女の顔に明らかな『焦燥』と『苛立ち』が浮かんだ。
「なんで……! たべる、たべるのぉっ!!」
少女は叫びながら、今度は嵐のような連続攻撃を仕掛けてきた。
目にも留まらぬ速度で放たれる、爪の連撃、回し蹴り、そして大地を砕くような踏み込み。一撃一撃がDランクダンジョンの地形を変えるほどの破壊力を秘めている。
俺は、その殺戮の嵐を前に一歩も退かず、ただ飛んでくる爪や蹴りを「はいはい」「よしよし」と、素手で軽く払い落とし続けた。
俺の手で弾き返された少女の攻撃が、行き場を失った衝撃波となって周囲の木々を薙ぎ倒していく。
しかし、俺のジャージには、泥一つ、かすり傷一つ付かない。
「はぁっ、はぁっ……! なんでっ、なんであたらないの……っ!?」
少女は肩で息をしながら、絶望的な表情で俺を睨みつけた。
どれだけ本気で攻撃しても、このニンゲンの腕の防御を突破することすらできない。
彼女の胃袋の底にある『飢え』が、限界を超えて脳髄を焼き焦がし始めていた。
「もう……いやっ! お腹空いたぁぁぁぁっ!!」
少女が悲痛な叫び声を上げると同時に、彼女の全身から赤黒いオーラが爆発的に噴き出した。
すべての魔力と体力を、次の一撃に込める。小細工なし。
絶対捕食者としての本能が導き出した、最も確実で、最も原始的な『捕食行動』。
彼女は再び大地を蹴り、ミサイルのような速度で俺の胸元へと飛び込んできた。
その唇の奥には、鋼鉄すら噛み砕く、サメのように鋭く連なった凶悪な『牙』が並んでいる。
狙いは俺の首筋の頸動脈。一撃で肉を食いちぎり、絶命させる一撃だ。
(すげえ泣きそうな顔で飛びついてきたぞ!? よっぽどお腹空いてパニックになってるんだな。よしよし、おじさんが受け止めてやるからな!)
俺は攻撃を防ぐことも避けることもなく、ただ「よしよし、怖かったなー」と両手を広げて、彼女の飛びつきを正面から抱きしめるように受け止めた。




