凪の休日と、存在強奪の正体
新宿都立総合病院。
ICUを飛び出した数日前とは打って変わり、一般病棟の個室には、穏やかな春の陽光が差し込んでいた。
「よし、美桜。ゆっくり立ち上がってみろ」
「うん……っ、よいしょ……」
美桜がベッドの端に手をかけ、慎重に床に足を下ろす。
数日前まで死の淵にいたとは思えないほど、その頬には健康的な朱が差し、瞳には力が宿っていた。
震える足取りで一歩、二歩。
まだ少し覚束ないが、彼女は確かに自分の足で歩き始めていた。
「すごいや、お兄ちゃん。身体がすごく軽いよ。……あのね、なんだか体中がポカポカしてて、今までずっと重かった肺も、嘘みたいにスースーするの」
「そりゃよかった。特効薬が効いたんだな」
俺はパイプ椅子に座り、妹の回復を眩しく見つめた。
担当医の話では、驚異的な回復力だという。週明けからは本格的なリハビリが始まるが、この調子なら今月中には退院の許可が出るかもしれないとのことだった。
「お兄ちゃん。……ねえ、お兄ちゃんが戦ってきたお話、もっと聞かせて?」
美桜がベッドに戻り、ワクワクした表情で身を乗り出す。
俺は少し照れくさくなりながらも、ダンジョンでの出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
「……事務員をクビになって、実はこっそり冒険者になってたんだ。
最初はプロテインを袋に詰めて戦ってさ。
Bランクの巨大なスケルトンと殴り合ったり、Aランクの吹雪の中にいるワイバーンをプロテイン缶の投擲で撃ち落としたり……」
「ええっ!? プロテインで!? さすがにお兄ちゃんそれは…」
「いやホントなんだって。……んで最後は、雲を突き抜けるような山の上で、全身が蒼い宝石でできた巨大なドラゴンと戦ったんだ。
そいつをぶっ飛ばして、お前の薬を手に入れた」
美桜は目を丸くして、お伽話を聞く子供のように「すごい、すごい」と連呼した。
俺がリストラされた後のどん底で、首を括ろうとしていたこと。
まどかという令嬢に拾われ、裏社会の権力争いに巻き込まれていたこと。
それは美桜には伏せておいた。
ただ、兄がヒーローのように戦って自分を救ってくれた。彼女には、その事実だけが伝わればそれでよかった。
「……あ、そういえば。入院費のことだけど、全部払い終えてきたから。これからはお金の心配、しなくていいぞ」
俺は、柊宗一朗から渡された手切れ金のカードで、一括で精算を済ませたことを告げた。
美桜は驚いたように口を開けていたが、やがて優しく微笑み、「お兄ちゃん、ありがとう。頑張ってくれたんだね」と、俺の大きな手をそっと握った。
◆
美桜との面会を終えた後、俺は病院の中庭にあるベンチに腰を下ろした。
手持ち無沙汰に、ただぼーっと、噴水の水しぶきや楽しそうに散歩する他の患者たちを眺める。
喉元まで迫っていた「死」と「借金」。
その二つの巨大な重圧が消え、俺の人生には今、奇妙な『空白』が訪れていた。
「……俺、これから何をすればいいんだろうな」
独り言が風に消える。
冒険者を続けるべきか? だが、今の俺の力はあまりにも目立ちすぎる。
また今回のように、大切な家族を危険に晒すことになるかもしれない。
かといって、普通の事務員に戻れるとも思えなかった。
一度、竜と命を削り合ったこの肉体と精神は、もう以前のような「平穏な日常」には馴染めないような気がしていた。
「強くなった先に、何があるんだろうな……」
かつては「美桜を救う」という明確なゴールがあった。
だが、そのゴールを駆け抜けた今、俺の前には果てしない荒野が広がっているだけだった。
強くなればなるほど、守りたいものから遠ざかっていくような、そんな矛盾した不安が胸をよぎる。
『……マスター。お悩みですか?』
エク子が声をかける。
「ああ。……俺、本当は何をしたいんだろうな」
答えは出ない。
ただ、春の陽光が今は少しだけ眩しすぎた。
◆
――同時刻。
この世界の物理法則や時間軸からは、完全に切り離された『特異空間』。
無数の幾何学的な光のラインが交差する真っ白な部屋で、一人の人物が宙に浮かぶ巨大なホログラムディスプレイを眺めていた。
「……ほう。単騎で蒼竜の討伐を確認、か。しかも討伐時間は想定の0.01%以下。バグだとしても少々派手すぎるな」
その人物は、退屈そうに指先で空間を操作する。
表示されたのは、結城誠の戦闘ログ、そしてステータスの詳細データだった。
「ふむ、結城誠……。適性検査は完全なるゼロ。……おや、これは」
管理者の指が止まる。
誠のスキル欄に刻まれた、一つの名称。
「【存在強奪】……なんだそれ。
これ名前こそ隠蔽されているが、内部コードを確認すると……ああ、やっぱり。
真名は【強欲】。いわゆる『大罪系』の特異スキルか」
管理者は、深いため息をつきながら椅子(のような光の塊)に深く沈み込んだ。
「大罪系スキル……。本来、適正なしの人間が手に入れられる代物ではないはずだ。……ったく、前任者の先輩は何を考えてこんなものを仕込んだんだか」
現在はもうこの場にいない、前任の管理者。
どうやら彼は「適性なしの絶望」という極限状態にある者が、自暴自棄になってダンジョンへ飛び込み、かつ武器や防具を持たずに、己の力のみでモンスターを倒す……という、普通あり得ないような条件をトリガーにして、この禁忌のスキルを「バグ」として埋め込んでいたのだ。
「『まさか条件を満たす奴が出てくるわけがない』とでも、たかを括っていたんだろうな。
……不真面目な先輩のせいで、現場の調整役がどれだけ苦労するか」
管理者は頭を抱え、再びディスプレイの誠の姿を見つめた。
「世界の理を喰らい、他者の存在そのものを自らの糧にする大罪。……この男が、自分の持つ力の『本当の意味』に気づいたとき、この世界はどのような変質を遂げるのか」
管理者は、諦めたように指を弾き、誠のステータス画面を閉じた。
「……まあいい。今はまだ観測だけにしておこう。……結城誠。君の『強欲』が、この退屈なシステムをどこまで壊してくれるのか、少しだけ期待させてもらうよ」
深いため息と共に、特異空間の光が静かに収束していった。




