失意と、無言の着信と
気がつけば、俺はボロアパートの万年床に仰向けに倒れ込んでいた。
柊本家からどうやって帰ってきたのか、タクシーに乗ったのか歩いてきたのか、その間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
天井のシミをぼんやりと見つめたまま、ピクリとも動けない。
身体の痛みはすでに完治しているというのに、心に開いた巨大な風穴から、生きる気力そのものが漏れ出しているようだった。
『……マスター。大丈夫ですか?』
脳内で、エク子が恐る恐る声をかけてくる。普段の明るさを完全に潜めた、痛ましそうな声だ。
「……大丈夫に見えるかよ」
乾いた声が漏れた。
「俺は……まどかを守るって言ったのに。俺の全部を懸けて守るって宣言したのに、結局あいつを傷つけて、自分は追放されて終わりだ。……ダサすぎるだろ」
自分の無力さが、ただただ呪めかしい。
だが、俺は自分に言い聞かせるように、暗い部屋の天井に向かって呟いた。
「でも、まあ……あれでよかったんだ。黒犬のトップがあいつの親父なら、少なくとも龍牙みたいな小悪党から命を狙われることはもうない。
……ボス、まどかの親父さんの庇護下にあるのが一番安全だ。
俺みたいな得体の知れないヤツがそばにいるより、よっぽどあいつのためになる」
『マスター……! 本当に、それでいいんですか!?』
エク子が、悲痛な声を張り上げた。
『まどかさんがどれだけマスターを頼りにしてたか、一番分かってるのはマスターじゃないですか! あんな別れ方、あんまりです!』
「じゃあどうしろって言うんだよッ!!」
俺はガバッと跳ね起き、誰もいない部屋に向かって怒鳴り散らした。
「俺は黒犬から永久追放されたんだぞ! あいつに近づくことすら許されねえ! 報復禁止の縛りがある以上、龍牙をぶち殺すこともできねえんだ! これ以上、俺にどうしろって……!」
ギリッと奥歯を噛み締め、両手で頭を抱える。
エク子も言い淀み、脳内に重苦しい沈黙が落ちた。
『……マスター。感情で状況は好転しません。論理的に考えましょう』
氷のように冷たく、けれど確かな熱を帯びたトラ子の声が響いた。
『ボスの意思は、組織の決定。それらはすべて「人間社会の枠組み」に過ぎません。マスターは現在、その枠組みの中で弱者として扱われているから苦しいのです』
「……どういうことだ」
『マスターには、蒼竜すら殴り倒す『規格外の力』があります。
ならば、組織の許可など必要としないほどに、絶対的な『個』としての地位と力を確立すればいいのです。
誰もマスターに逆らえず、誰もマスターの行動を縛れないほどの絶対者に。
……契約は切れました。ですが、マスターが個人的に立てた『彼女を守る』という誓いまで、否定されたわけではありませんよ』
トラ子の言葉が、冷え切っていた俺の胸の奥に、小さな火種を落とした。
そうだ。俺は黒犬を追放された。
だが、俺の筋肉まで奪われたわけじゃない。
今は無理でも、いつか必ず…。
ブーッ、ブーッ。
その時、放り投げてあったスマートフォンが震えた。
画面を見ると『非通知』。
普段なら絶対に出ないし、借金取りの類ならすでに返す金はある。
だが、俺の直感が「出ろ」と強く告げていた。
通話ボタンを押し、耳に当てる。
「……もしもし」
「……」
返事はない。
スピーカーの向こうからは、ただ微かな、震えるような呼吸音だけが聞こえてきた。
だが、その吐息の微かな震えだけで、俺にはそれが誰なのか痛いほどに分かった。
「……まどか、か?」
無言。
しかし、電話が切られる気配はない。
言葉を発すれば、誰かに気づかれるのかもしれないからか。
俺は、天井を見上げながら、できるだけ静かで、落ち着いた声を作った。
「聞いてくれ。俺は、黒犬から追放された。
親父さんに、二度と敷居を跨ぐなと言われたよ。……だから、もうお前には会えないと思う」
電話の向こうで、小さく布が擦れるような音がした。
「でも、安心しろ。お前にはボスっていう父親がいる。あそこなら、もう誰も手出しできない。お前はちゃんと、守られるからさ」
言いながら、自分の胸がナイフで抉られるように痛んだ。
だが、言わなければならない。彼女を安心させるために。
「でもな。まどか」
俺は、スマホを強く握りしめ、自分自身の魂に刻み込むように宣言した。
「もし……本当に困った時。親父さんの力でもどうにもならなくて、お前が本当に絶望しそうになった時は……必ず俺に連絡しろ」
静寂。
「その時は、ルールだろうが親父さんだろうが、全部俺の筋肉でぶっ飛ばして……絶対に、お前を守りに行くから」
――ッ。
電話の向こうで、小さく、堪えきれないように息を呑む音が聞こえた。
そして。
ツーツーツー……。
電話は一方的に切断された。
それでいい。あいつに俺の覚悟が伝わったのなら、それで。
俺はスマホをベッドに放り投げ、再び万年床へと身を沈めた。




