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震える指先と、引導


 まどかの呼吸が少しずつ安定し、眠りについたのを確認してから、俺は音を立てないように事務所を出た。


 深夜の新宿。

 不夜城の喧騒も、今の俺にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。


「……何がいいかな。ゼリー、それともお粥か。あいつ、プリンとか食べるかな」

 コンビニの棚の前で、俺は柄にもなく悩み込んでいた。


 普段はそういう食べ物は眼中にない俺が、誰かのために真剣に選んでいる。

 そんな自分に少しだけ苦笑いしながら、俺はカゴにいくつかの栄養ゼリーと、少し高めのプリン、そして温かいお粥を詰めて会計を済ませた。

 (早く戻ってやらないと。あいつ、一人にするとまた震え出すかもしれないな)


 俺は早足でビルへ戻り、エレベーターを飛び降りて事務所のドアを開けた。


「まどか、買ってきたぞ。プリンも――」

 言葉が、喉の奥で凍りついた。

 

 ……いない。

 ソファの上には、つい先ほどまで彼女が羽織っていた俺のジャージが、寂しそうに丸まっているだけだった。


「まどか!? まどか、どこだ!!」

 トイレも、奥の仮眠室も、狂ったように探し回った。

 荒らされた形跡はない。

 争った跡も、窓が割られた様子もない。ただ、彼女の存在だけが、魔法のように掻き消えていた。


 絶望が背筋を駆け上がったその時、俺の目は、デスクの上に置かれた一枚の白い紙を捉えた。


『まどかは保護した。本家に来い。――柊宗一朗』

 短い、だが断絶を許さない絶対的な命令。

 黒犬の頂点、柊宗一朗。まどかの父親であり、俺を雇った張本人。


「……なんで、バレた」

 龍牙との約束は守ったはずだ。まどかも口を割るようなことはしないと言っていた。


 どこから情報が漏れたのか。

 左京か、それとも最初からすべて見抜かれていたのか。


 考えても答えは出ない。

 だが、これだけは分かっていた。


 本家に行くということは、俺が隠している「龍牙の裏切り」や「人質交換の事実」が、最悪の形で露見するかもしれないということだ。


 もし龍牙が『契約違反』だと判断すれば、病院にいる美桜や母さんに危害が及ぶ。


 俺の心臓は、これまでにないほど激しく脈打っていた。

 外に出ると、事務所の前に黒塗りの高級車が音もなく停まっていた。


 後部座席のドアが自動で開く。

 抗う術はない。

 俺は覚悟を決め、その闇へと身を投じた。


 ◆


 辿り着いた柊本家は、静寂という名の鎧を纏っているようだった。

 重厚な門を潜り、磨き上げられた廊下を渡る。

 若衆の足音すら聞こえない。

 案内されたのは、最奥にある書斎だった。

 扉が開くと、そこには重厚な机を背に、夜の帳を見つめる一人の男が立っていた。


 柊宗一朗。

 振り向いたその眼光は、Aランクダンジョンのボスすら霞むほどの、圧倒的な「格」と「威圧感」に満ちていた。


「……結城誠です。失礼します」

 俺の声が、不自然なほどに震えた。

 宗一朗は無言のまま、しばらく俺を射抜くように見つめていた。


 その沈黙は、俺の肺を押し潰すほどの重圧となって部屋に満ちる。

「……なぜ、まどかがあのような無様な姿になった?」

 低く、地鳴りのような声が響いた。


「お前という護衛がついていながら、なぜあのような衰弱を許した。なぜ、守れなかった」


 糾弾。

 俺は、嘘をつくことができなかった。だが、龍牙の名前を出すこともできない。


 俺は、まどかが何者かに攫われたこと以外の事情を、絞り出すように話した。


「……俺の、私情です。

妹の容態が急変し、死ぬかもしれない状況でした。俺は、護衛の任務よりも、妹の命を救うことを優先しました。

……その隙を突かれました」


 俺の言葉を聞き、宗一朗は眉一つ動かさなかった。

「……お前は何のために、そこに居る。何のために、あの子の傍に置いたと思っている」


 一歩。

 宗一朗が踏み出した瞬間、世界が歪んだ。

 

 ――ッ!!

 俺が全く反応できなかった。

 気づいた時には、目の前に宗一朗の拳が迫っていた。


 ドッ、と凄まじい衝撃が俺の顔面を捉えた。

 俺の強靭な肉体が、ただの一撃で後方の壁まで吹き飛ばされ、書棚が音を立てて崩れる。


「ガハッ……、ゲホッ……!」

 視界が火花を散らし、鼻腔に鉄の味が広がる。

 信じられなかった。この男は「ただの物理的な速さ」で凌駕したのか。


 宗一朗は静歩で近寄ると、倒れ込む俺の胸ぐらを片手で掴み上げ、壁に叩きつけた。


「あの子は、お前を信じていた。お前という盾があるから、前を向けると言っていた。

……その信頼を、お前は自分の都合でドブに捨てたのだ。この、役立たずが」


 至近距離で浴びせられる、絶対者の罵倒。

 

「お前が家族のために任務を捨てたというのなら、お前の家族に同じことをされても文句は言えまい。なぁ?」


 俺は、何も言い返せなかった。

 俯く俺の目に、自分の血が床に落ちるのが見えた。


 事実だ。

 俺は美桜を救うために、まどかと離れた。

 そしてまどかは拐われ、地獄を味わった。

 守るべき時に、守るべき人を守れなかった。


 しばらくして、宗一朗は俺をゴミのように床に放り出した。

 彼は懐からハンカチを取り出し、俺に触れた手を拭うと、再び冷徹な声で問いかけた。


「……最後だ。あの子をあそこまで衰弱させたのは、誰だ。誰が、我が娘に手を出した」

 ……言えない。


 龍牙だと言えば、あいつは暴走する。美桜が、母さんが死ぬ。

 

「……答えられません。まどかも……何も教えてくれませんでした」

 俺の答えを聞き、宗一朗は深い沈黙に落ちた。

 部屋を支配する冷気が、さらに鋭さを増していく。


 やがて、宗一朗はデスクから一枚のプラスチックカードを取り出し、俺の足元へと投げ捨てた。


「……それは手切れ金だ。お前の妹の治療費の残額、そしてこれからの生活費に十分な額が入っている。それで治療費を完済してやれ」


 俺は、目を見開いた。

 ……完済。それは俺が命を削って稼がなければならなかった額。

 

「お前の事情など、最初からすべて調べてある。妹のために必死に食らいつくその牙を買って、あの子を託した。……だが、期待外れだった」


 宗一朗は、背中を向けて歩き出す。

「……二度と、黒犬の敷居を跨ぐな。私の目の届くところから、消えろ。

お前の顔は、二度と見たくない」


 ……それが、俺に下された「引導」だった。

 俺は震える手で、足元のカードを拾い上げた。


 欲しくて堪らなかった金。

 美桜の未来を約束するはずの、金。


 だが、その手触りは死んだ魚のように冷たく、鉛のように重かった。

 よろよろと立ち上がり、俺は書斎を後にした。


 豪華な廊下を歩く俺の影は、どこまでも惨めに伸びていた。


「……終わった、んだな」

 エク子もトラ子も、何も言わなかった。

 ただ、深夜の風が吹く外へ出た瞬間、俺の頬を伝ったのは、夜露の冷たさだけではなかった。


 妹の命は救えた。

 借金もなくなった。

 俺は、自由になった。


 だというのに、胸の奥には、ぽっかりと黒い穴が開いたような虚無感だけが残っていた。


 俺の「冒険者」としての、そして「護衛」としての短い物語が、最悪の形で幕を下ろしたことを、俺はただ静かに理解していた。

ここまでお読み頂きありがとうございます。

後味の悪い幕引きになってしまいましたね‥。

ですが、お話はまだまだ続きます。


続きが気になる方はブックマークを。

面白いと思った方は是非評価の程よろしくお願いします。

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