恩返しの誓い
がらんとした事務所には、壁掛け時計の秒針が時を刻む無機質な音だけが響いていた。
窓から差し込む深夜の街灯の光が、ソファに横たわるまどかの青白い横顔を照らしている。
俺は床に膝をついたまま、彼女の細く冷え切った両手を、自分の大きな手で包み込み続けていた。
数十分が経過し、俺の体温が伝わったのか、彼女の指先にわずかに温もりが戻り始めていた。
「……なぁ、まどか」
俺は、ひび割れた彼女の唇を見て、たまらず口を開いた。
「やっぱり、病院に行こう。身分を隠せる闇医者でもいい。点滴だけでも打たないと、身体が持たないぞ」
しかし、まどかは力なく首を横に振った。
「ダメよ……」
「なんでだよ! お前の身体が一番大事だろうが!」
「……病院や闇医者に行けば、必ず伝わってしまう、監禁の痕跡を見れば、医者は警察か、あるいは裏社会の顔役に報告を入れる。
……そうなれば、必ず親父様の耳に入ってしまう」
まどかの言葉に、俺はハッと息を呑んだ。
「龍牙との契約を思い出しなさい。……『親父様には他言無用』。もし私の怪我から事の顛末が露見すれば、龍牙はそれを『契約違反』だと主張して、美桜ちゃんやあなたのお母様を狙う口実にするわ……。ヤクザの理屈なんて、そんなものよ」
「っ……! あいつ……どこまで卑劣なんだ……!」
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
まどかは、自分の命が削られているこの極限状態にあっても、なお俺の家族の安全を第一に考えてくれているのだ。
「……大丈夫。もう少しだけ、このままでいさせて。……あなたの手、すごく温かいから」
まどかは、俺の手にすり寄るように頬を寄せた。
「俺のせいで……すまない」
懺悔の言葉が、俺の口から自然とこぼれ落ちていた。
「俺が、お前の護衛を離れなきゃ、こんなことにはならなかった。俺の素材のせいで、龍牙に目をつけられた。お前に、こんな酷い思いをさせて……本当に、すまない」
俺が深く頭を下げると、まどかは微かに笑みを浮かべた。
「バカね。私の油断よ。部下の裏切りに気づけなかった、私のボスの器が足りなかっただけ。
……誠が謝ることなんて、何一つないわ」
強がるような、気丈な声。
「今は胃が縮んでるから固形物は無理だけど……少しずつ、ゼリーやお粥から食べれば、すぐに治るわよ。これくらいでくたばったりしないわ」
「まどか……」
気丈に振る舞う彼女の姿が、逆に痛々しかった。
だが、その強がりの仮面も、長くは続かなかった。
「……でも、ね」
ぽつり、と。
静寂の事務所に、まどかの震える声が落ちた。
「……本当は、すごく不安だった。真っ暗な地下室で、……いつ殺されるかもわからなくて。……誰も、助けに来てくれないんじゃないかって」
まどかの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、ソファを濡らしていく。
「……来てくれて、本当によかった。ありがとう、誠……っ」
彼女の涙を見るのは、これが初めてだった。
常に余裕の笑みを浮かべ、強気で計算高かった『黒犬』の令嬢。
その心の内側で、どれほどの恐怖と戦っていたのか。俺は胸が張り裂けそうになりながら、彼女の手をさらに強く握り返した。
「……そういえば」
ひとしきり泣いて少し落ち着いたのか、まどかが鼻をすすりながら、ふと俺を見上げた。
「妹さんは……? 間に合ったの……?」
自分の命すら危うい状況で、まだ俺の妹を心配してくれるのか。
俺は深く頷き、精一杯の笑顔を作った。
「ああ。間に合ったよ。特級エリクサーを飲ませたら、嘘みたいに元気になった。
……お医者さんも、奇跡だって腰を抜かしてたよ。今は母さんが横についてる」
「……そう。よかった……本当によかったわね、誠」
まどかの顔に、心の底からの安堵の笑みが浮かんだ。
自分のことのように喜んでくれるその笑顔に、俺の目頭も熱くなる。
それから、しばらくの間。
お互いに言葉を発することなく、静寂が流れた。
冷たかった事務所の空気が、少しだけ穏やかなものに変わっていくのを感じていた。
だが、その沈黙を破ったのは、まどかのひどく脆い、自嘲するような呟きだった。
「……あなたがいてくれて、本当によかった」
「まどか?」
「私ね……地下室で龍牙から『お前は見捨てられた』って言われた時。……本当に、そうなんじゃないかって思っちゃったの」
まどかは、俺の手から視線を外し、暗い天井へと目を向けた。
「だって、妹さんは無事だったんでしょう?
あなたの目的は、一番大事な妹さんの命を救うことだった。
……目的が達成されたなら、もう『黒犬』みたいな血生臭い世界に戻ってくる理由なんて、どこにもないもの」
「何を言って……」
「麗奈の隠密があなたに伝言を届けてくれたとしても……私なんて、ただの我儘な極道の娘よ? お金であなたを縛り付けて、危険なダンジョンに送り込んで……。
目的を果たしたあなたにとって、私はもう、命を懸けてまで助ける価値なんてない人間だと思ったから……」
「……ふざけんな」
俺の低く、地を這うような声が、まどかの言葉を遮った。
俺は彼女の手を握ったまま、ソファの横に両膝をつき、彼女の目を真正面から見据えた。
「俺が、目的を果たしたからって、お前を見捨てるような薄情なクズだと思ってたのか?」
「……そういう意味じゃ……」
「違う。……聞いてくれ、まどか」
俺は、ずっと心の奥底に秘めていた思いを、すべて吐き出すように口を開いた。
「俺は、ちょっと前まで……本当に何の希望もない、適性ゼロのゴミクズだったんだ。
美桜は病室で死にかけてるのに、俺には治療費を稼ぐ力もなくて、協会はクビになって……。
絶望して、本気で首を括って死のうとしてた」
まどかが、驚いたように目を見開く。
「ヤケクソでダンジョンに突っ込んで、奇跡的にバグみたいなスキルを手に入れた。
でもな、ただ力が手に入っただけじゃ、俺は美桜を助けられなかったんだよ」
「……」
「スキルがあっても、ギルドを追放された俺には、Aランクダンジョンに入るための『特区の許可証』も、資金も無かった。
……力がどれだけあろうと、社会のルールや金の前では、適性なしの貧乏人にはどうしようもなかったんだ」
俺は、真っ直ぐにまどかを見つめた。
「……俺が美桜を助けられたのは、俺のスキルの力じゃない。お前が、あの絶望の底にいた俺に『生きる道』を与えてくれたからだ」
まどかの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
「お前は『ただの黒犬のボスの娘』なんかじゃない。お前は、結城誠っていう人間の恩人だ。
……俺の筋肉も、この命も、全部お前が拾って生かしてくれたものなんだよ」
俺は、彼女のひび割れた唇に触れないように、そっと彼女の頬の涙を拭った。
「だから……絶対に勘違いするな。俺がお前のそばにいるのは、金で雇われたからでも、契約があるからでもない。
……お前が世界中の奴らを敵に回そうが、俺がこの手で、お前を守り抜く。俺の全部を懸けてでもな」
「……まこと……っ、ああぁっ……!」
まどかは、繋がれていた俺の手を力強く引き寄せ、俺の首に腕を回して、声を上げて泣き崩れた。
俺のジャージの肩が、彼女の熱い涙で濡れていく。
俺は彼女の背中を、壊れ物を扱うように優しく、ゆっくりと撫で続けた。
『……マスター』
『マスター、最高にカッコいいですよ。……今度こそ、フラグじゃなくて、本物のヒーローの台詞です』
脳内で、トラ子とエク子が静かに、優しく囁いた。
ああ、俺はヒーローなんて立派なもんじゃない。
ただの、妹と恩人のためにしか戦えない、不器用な男だ。
だが、それでいい。
この腕力が、守るべきものを守れるるなら、俺はどんな神話のバケモノにだって、裏社会の狂犬にだって、何度でも立ち向かってやる。
静かな事務所の夜は更けていく。
俺たちは互いの存在を確かめ合うように、いつまでも、いつまでも寄り添い続けていた。




