毒蛇との取引、まどか救出
スマートフォンの画面越しに、龍牙の蛇のような視線が俺を射抜く。
ヤツの目が細められた。
それは獲物を狙う目ではなく、正体不明の怪物を前にした時の、臆病なまでの警戒心だった。
龍牙の内心は、疑念で渦巻いている。
Aランクモンスターを単独で、しかもこれほど短期間で狩ってきた男だ。
そんな規格外の暴力を持つ者が、大人しく自分の言うことを聞くのかと。
引き渡した直後、その圧倒的な力で自分を、そして俺らの拠点を根こそぎ叩き潰しに来るのではないか。
(本当にその素材だけで全部か?それに引き渡しした後のリスクもある…違和感はあるが仕方ない、ただ予防線は張らせてもらう)
その恐怖が、龍牙にさらなる「毒」を吐き出させた。
『いいだろう、取引に応じてやる。……だが、条件を追加だ。これを飲めなきゃ、この場でまどかの首を撥ねる』
「……なんだよ。言ってみろ」
『一つ、親父(組長)には他言無用だ。
もし聞かれたら、「この取引は以前からまどかと結んでいた個人的な契約だった」と言い張れ。
二つ、今回の件に関し、俺や俺の派閥への一切の報復行為を禁ずる。
……指一本でも出してみろ、その瞬間に契約破棄だ』
龍牙の声が、一段と低く冷酷に響く。
『もし、俺の身に何かあったり、俺のシノギに被害が出たりした時は……お前の妹、美桜だったか? あの子と母親の命を、地の果てまで追い詰めて奪う。
……これは脅しじゃねえ、決定事項だ。分かったか』
「…………っ!!」
俺は思わず、心の中で激しい舌打ちをした。
内心では、次の会合を待たずして龍牙の裏切りと卑劣な手段を親父さんにぶちまけ、公の場でコイツを社会的にも物理的にも抹殺するつもりだった。
だが、今の条件を飲めば、龍牙を糾弾する道は完全に封じられる。それどころか、あいつが自滅しても俺のせいにされかねない。
(……家族を、美桜を狙うと言われたら……)
俺には、断る選択肢などなかった。
「……分かったよ。飲んでやる。
口は割らねえし、お前への報復もしねえ。
……だから、まどかを返せ。今すぐにだ」
『ハハッ! いい返事だ! そう来なくっちゃなァ!』
画面の向こうで龍牙が狂ったように笑う。
ようやく、命懸けの交渉がテーブルに乗った。俺は拳を解き、血が滲むほど握りしめていた右手をゆっくりと開いた。
「マスター……。悔しいですが、今は耐え時です。まどかさんの安全確保を最優先に」
「そうですよ! まどかさんさえ戻ってくれば、あとはマスターの筋肉が……あ、ダメでしたね、報復禁止でしたっけ。……でも、とにかく今は取引です!」
エク子言葉を受け流しながら、俺は差し出してきた車に乗り込んだ。
場所はここじゃない。龍牙の直属の事務所だ。
ヤツのホームグラウンドで、最終的な引き渡しが行われる。
◆
数十分後。
車は新宿の喧騒から少し外れた、一見するとただのオフィスビルに見える、龍牙の事務所前に到着した。
深夜にも関わらず、建物の前には黒服の男たちがずらりと並び、殺伐とした空気が漂っている。
俺は車のドアを開け、黄色いドドンキの袋をしっかりと掴んで外に出た。
袋の中には、ヤツらが喉から手が出るほど欲しがっている、偽りの「全財産(Aランク素材)」が入っている。
「……連れてきたぞ! 龍牙を出せ!!」
俺の咆哮が、静まり返った夜の路地に響き渡る。
建物の重厚な扉がゆっくりと開き、中から嘲笑を浮かべた龍牙と、鎖に繋がれたまま引きずられるようにして、まどかが姿を現した。
街灯の光に照らされたまどかの顔は、先ほどの画面越しよりもさらに憔悴して見えた。
だが、彼女は俺の姿を捉えた瞬間、言葉にならない声を漏らした。
まどかの命、美桜の安寧、そして龍牙の欲望。
すべての因縁が、この事務所前の路上で、最悪の形で交差しようとしていた。
♦︎
深夜の路上。
龍牙の事務所前に漂う殺気は、頂点に達していた。
俺は右手に持った『魔法の黄色いドドンキの袋』を掲げ、龍牙の蛇のような瞳を正面から見据えた。
「……約束の物は持ってきた。まどかをこっちに寄越せ」
俺はそう言い捨てると、袋の中から【フロスト・ワイバーンの牙】と【アイス・ゴーレムの魔核】を取り出し、俺とヤツらの中間地点――アスファルトの路上へと無造作に置いた。
蒼い魔力の残光を放つ素材が、街灯の下で不気味に輝く。
「……ほう、いい心がけだ。おい、取ってこい」
龍牙の合図で、武装した部下の一人が警戒しながら歩み寄り、素材を回収して龍牙の元へと持ち帰る。
龍牙の後ろから、鑑定士と思わしき眼鏡をかけた年配の男が姿を現し、震える手で素材を確認し始めた。
「……間違いありません。この硬度、そして内包されている魔力の質。紛れもなく、Aランクダンジョン『蒼鳴の霊峰』でしか採取できない超一級品です。……市場に出れば、億単位の金が動きますぞ」
男の報告を聞き、龍牙の口角がこれ以上ないほど醜く吊り上がった。
『ヒャハッ! 上等だ! たった数日でこれだけのシノギを持ってくるとは、流石は化け物だなァ!』
龍牙は満足げに素材を懐に仕舞い込むと、鎖に繋がれたまどかの背中を乱暴に押し出した。
「約束は守ってやるよ。……ただし、忘れるなよ? 「他言無用」と「報復禁止」だ。特にお嬢様……お前も、親父に変な泣き言を吹き込んだりするなよ? じゃないと、この犬の家族がどうなるか……分かってるよな?」
「……っ、わかってるわよ」
まどかは屈辱に唇を噛み締めながら、ふらつく足取りで俺の元へと歩み寄る。
俺は反射的に駆け出し、倒れそうになる彼女の細い肩を抱きとめた。
「まどか! 大丈夫か!?」
「……ま、こと……。ごめんなさい、私……」
「謝るな。……今すぐ、安全な場所に連れて行くからな」
俺はまどかを横抱きにし、龍牙とその部下たちを射貫くような視線で睨みつけた。
報復禁止の誓約がある以上、今はこいつらの首を跳ねるわけにはいかない。だが、この怒りは消えたわけではなかった。
「ククッ、あばよ、黒犬の負け犬共。せいぜい傷を舐め合ってろ」
龍牙の嘲笑を背に、俺はまどかを連れてその場を去った。
取引は成立した。
最悪の形ではあったが、まずは彼女の命を救い出したのだ。
◆
数十分後。
俺たちは、新宿の雑居ビルにあるまどかの事務所へと戻っていた。
かつては部下たちが忙しなく動き回り、活気に溢れていた場所。
だが、今の事務所は不気味なほどに静まり返り、がらんとしていた。
信頼していた部下たちに裏切られ、買収されたまどかの派閥は、事実上崩壊していた。
主を失ったオフィスには、ただ虚無感だけが漂っている。
「……ひどい有様だな」
俺はまどかをソファにゆっくりと横たわらせた。
彼女は何も言わず、ただ天井をぼんやりと見つめている。
その瞳からは、いつもの鋭い知性も、不敵な自信も消え失せていた。
「まどか、まずは水を飲め。一口ずつでいいから」
俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、彼女の唇に添えた。
まどかは弱々しく頷き、数口だけ水を飲み込むと、短く「……ありがとう」と呟いた。
「何日もまともな食事をしてないんだろ。いきなり固形物は胃が受け付けないだろうから、コンビニでゼリーとか、消化にいいものをいくつか買ってきてやる。……ここで大人しくしてろよ」
俺はそう言って立ち上がり、事務所のドアに向かおうとした。
だが、その瞬間。
「――待って!」
背後から、衣擦れの音と共に切実な声が響いた。
振り返ると、まどかが震える手を伸ばし、俺のジャージの裾を必死に掴んでいた。
「行かないで……。お願い、誠……一人にしないで……っ」
令嬢の、初めて見せる弱さ。
その指先は小刻みに震え、瞳には今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。
「まどか……」
裏切りと孤独、そして死の恐怖に晒され続けた彼女にとって、今の俺だけが唯一の「繋がり」なのだ。
俺は、ドアノブから手を離した。
「……ああ、わかった。どこにも行かない。ここにいる」
俺は彼女の横に戻り、その冷たくなった手を、大きな手のひらで包み込んだ。
新宿の夜。
事務所の中で、俺はただ静かに、まどかのそばにいた。




