極寒の地、届かない空
数時間後。
俺は日本有数の極大危険地帯、第1エリア『蒼鳴の霊峰』――Aランクダンジョンのゲート前に立っていた。
新宿の地下深くに存在するその場所は、これまでのダンジョンとは全く空気が違った。
分厚い鉛と魔力防壁で覆われた巨大な軍事施設。
サーチライトが冷たい光を放ち、迷彩服を着た自衛隊員や、重武装の協会トップエージェントたちが物々しい警戒態勢を敷いている。
ここから先は、国家の許可を得たSランクパーティーか、軍の特命部隊しか立ち入れない絶対の死地だ。
「おい、そこのお前! ここは一般人が立ち入っていい場所じゃないぞ! 命が惜しければすぐに立ち去れ!」
ゲートの警備をしていた屈強な隊員が、ドドンキの1980円ジャージを着た俺を見るなり、血相を変えてアサルトライフルを構えた。
無理もない。Aランクゲートの前に、手ぶらのジャージ姿で現れるなど、自殺志願の狂人にしか見えないだろう。
「……ご苦労様です。俺は内閣府の者です」
俺は落ち着き払った動作で、まどかから受け取った漆黒のカード――『内閣府直属・特区ダンジョン特別査察官』の身分証を提示した。
「念のため確認致します。
認証OKで…なっ!?……特、特別査察官殿!?
し、失礼いたしましたッ!!」
菊の紋と絶対の権限を示すカードを見た瞬間、隊員たちの顔が青ざめ、一斉に銃を下ろして最敬礼の姿勢をとった。
「あの、査察官殿……お一人ですか!? 護衛の部隊は……」
「内部の極秘調査です。一人で構いません。ゲートを開けてください」
「ハッ! ゲート、開錠します!」
ズゴゴゴゴゴ……!!
重厚な機械音が鳴り響き、厚さ数メートルはあろうかという巨大な防壁の扉がゆっくりと開いていく。
開いた隙間からは、凍てつくような冷気と共に、肌を針で刺すような高濃度の魔力の暴風が吹き荒れてきた。
並の冒険者なら、この風を浴びただけで膝をつき、呼吸困難に陥るだろう。
(行くぞ、美桜。……必ず、特級エリクサーを持ち帰る)
俺は魔法の黄色いビニール袋から【深層の鍵】を取り出す。
特異ゲートの奥に鎮座する、巨大な転移陣。
足元に描かれた幾何学的な魔法陣が妖しい光を放ち、俺の身体を眩い光が包み込んだ。
♦︎
強烈な浮遊感と眩暈。空間の座標そのものが切り替わる感覚の後、ゆっくりと目を開けた俺の視界は、果てしなく続く圧倒的な「蒼」に染め上げられていた。
「……なんだ、ここは」
第1エリア『蒼鳴の霊峰』。
その名の通り、そこは空も、大地も、そびえ立つ険しい山々さえもが、高濃度の魔力によって蒼く結晶化した、幻想的で狂気じみた異世界だった。
見渡す限りの氷晶の大地。そして、耳をつんざくような轟音と共に、視界を蒼く染め上げる猛烈な吹雪が吹き荒れている。
「……ッ!? さ、さむッ!! さむぶぅぅぅッ!?」
転移直後、容赦なく全身を叩き据えた暴風雪に、俺はガチガチと歯の根を鳴らしてその場にうずくまった。
息を吸うだけで肺がチクチクと痛み、吐き出した白い息がコンマ一秒で氷の粒となって落ちる。ドドンキで買った1980円のペラペラなジャージなど、この暴風の前では全紙に等しい。
無数の氷の刃で皮膚を削り取られているような、尋常ではない寒さだ。
「マ、マスター! 環境データの解析が完了しました!」
脳内で、トラ子がかつてなく緊迫した声で警告を発する。
「現在の気温はマイナス60度。大気中の魔力濃度は、Bランクダンジョンの約400倍です! 一般の人間なら、この空気を一呼吸吸い込んだ瞬間に肺が魔力結晶化して即死します。これは災害指定区域の以上です!」
「おおー、怖いですね! 普通の冒険者なら、ウン千万円の対環境防護服と、魔力中和の結界魔法が必須の超絶デスゾーンですよ!」
エク子が明るく補足するが、俺にはツッコミを入れる余裕すらない。
「だ、だから! 俺も死にそうなんだが!? 【竜鱗装甲(極)】はどうした!」
「装甲は正常に稼働し、致死ダメージと細胞の壊死を完全に防いでいます! ですが、問題はマスターの『魔力消費量』です!」
トラ子が空中に投影したホログラムのゲージが、ジリジリと減っていくのが見えた。
「このAランクの極限環境を相殺するために、マスターの肉体は常に全力でバリアを張り続けている様なです。
このままでは、数時間もすれば魔力と体力が底を突き、凍死します!」
「なっ……環境だけで体力を削られるっていうのか!?」
これまでのダンジョンでは、環境を気にしたことなど一度もなかった。
だがここはAランク。
ただ「そこに立っているだけ」で命をすり減らす、文字通りの死地だ。
ジャージの生地はカチコチに凍りつき、関節を動かすたびに嫌な音を立てている。筋肉も寒さで硬直気味だ。
「……クソッ。Aランク、舐めてたわけじゃないが、ここまでとはな」
俺がドドンキの袋を抱えながら寒さに震えていると、不意にトラ子の声が一段と鋭くなった。
「――マスター! 上空、強大な魔力反応! 来ます!」
ズオォォォォッ!!
蒼い吹雪を切り裂いて、巨大な影が急降下してきた。
翼長20メートルはあろうかという、全身が鋭い氷の刃で覆われた飛竜だった。
だが、Bランクの魔物たちとは決定的に違う点がある。その瞳に宿る、冷酷で知的な光だ。
「Aランク下位・魔物『フロスト・ワイバーン』です! マスター、気をつけてください! Aランクの魔物は本能だけで動く獣ではありません。ヤツらは高度な知能と、環境を利用する狡猾な戦術を持っています!」
「……ッ、なんか悔しいな!」
トラ子の警告と同時、飛竜の口から蒼白い極寒のブレスが放射された。
俺は咄嗟に横へと跳躍し、回避行動をとる。
だが――
「なっ!?」
ツルッ!
踏み込んだ足元の氷晶が、俺の踏み込みに耐えきれずに砕け、さらに表面の超低温の氷が潤滑油のように滑った。姿勢が崩れる。
ドガァァァァァァァァッ!!
「ぐあぁぁッ!?」
直撃は免れたものの、ブレスの余波が俺の身体を吹き飛ばした。
【竜鱗装甲(極)】が悲鳴を上げ、俺は数十メートルも氷の大地を転がり、巨大な氷柱に激突してようやく止まった。
「マスタァァァッ!?」
「痛てて……ッ。なんだあの威力、掠っただけで内臓が揺れたぞ……!」
俺は口内に滲んだ血を吐き捨て、よろよろと立ち上がった。
幸い、黄色いビニール袋(絶対破れない)は無事だったが、俺のジャージはすでにボロボロに引き裂かれ、皮膚に強烈な冷気が叩きつけられている。
『……ギルルルルル……』
上空でホバリングするフロスト・ワイバーンが、俺を見下ろして嘲笑うように喉を鳴らした。
あいつは分かっているのだ。この氷の大地では、俺のような物理特化の近接アタッカーがまともに踏み込めないことを。
「クソトカゲが……! 降りてこい!!」
俺は足元に転がっていたバスケットボール大の氷の塊を拾い上げ、全力で上空の飛竜に向かって投擲した。
大気を切り裂く轟音と共に、氷塊が弾丸のように飛んでいく。
だが。
『――ギィィィンッ!』
飛竜が翼を一度羽ばたかせると、そこから発生した猛烈な吹雪(風の防壁)が、俺の投げた氷塊の軌道を逸らした。
氷塊は飛竜の遥か右を通り過ぎ、虚しく空の彼方へと消えていく。
「なっ……風圧で弾かれただと!?」
「マスター! ヤツは自身の周囲に常に竜巻状の風の鎧を纏っています! 中途半端な質量兵器(投擲)では、届く前に軌道を逸らされます!」
トラ子の冷静な分析が、絶望的な状況を突きつける。
足場が悪く、まともに踏み込めない。
空を飛ばれているため、自慢の拳が届かない。
物を投げても、風の防壁に阻まれる。
そして、この極寒の環境そのものが、時間経過と共に俺の体力を削っていく。
『シャァァァァァァッ!!』
俺が地上で足止めを食らっている間に、フロスト・ワイバーンは再び大きく息を吸い込んだ。
今度は牽制ではない。周囲の大気から莫大な魔力を集束させ、口元に蒼い太陽のような絶対零度のエネルギー球を形成し始めている。
「マスター! ヤツの最大出力のブレスが来ます! 直撃すれば、いくら装甲があってもジャージごと消し飛びます!」
「わかってる! だが、どうすればいい!?」
Aランク。それは単なる数値の暴力ではない。
環境、戦術、そして圧倒的な個の力。
すべてが俺を殺すために最適化された、絶望の領域。
俺はドドンキの袋を握り締め、上空から迫り来る「死」を前に、凍りつく息を吐いた。




