閑話 傲慢なる者の贖罪と、侵食する原罪
関東地下深層。
かつて巨大なジオフロントとして計画され、現在は国家特務機関『Genesis』の最重要機密区画となっている【特別施設・タルタロス】。
そこは、文字通り『命を秩序に変換する』ための巨大な工場だった。 無機質な純白の壁面。空間を埋め尽くすように立ち並ぶ、見上げるほど巨大な数百もの円筒形の培養槽。
そのシリンダーの中には、緑色の粘着質な培養液に満たされ、無数のチューブに繋がれた『人間』たちが浮かんでいた。
つい数日前まで、不器用ながらも必死に生きていた冒険者たち。
彼らの肉体は麻酔で眠らされているが、その顔は一様に激しい苦痛に歪み、無意識下で声にならない絶望の悲鳴を上げ続けている。
チューブを通して彼らの『魂』の概念がドロドロに融解され、抽出され、一つの高密度な魔力回路――赤くドス黒く脈打つ【マキナのコア】へと再構築されていく。
命をすり潰し、絶対的な命令にのみ従う機械の歯車を量産する狂気の光景。
「……」
その地獄のような生産ラインを、施設最上部の特等席から見下ろす男がいた。
Genesis長官、神宮寺。
国家の法を書き換え、この狂った秩序の世界を創り上げようとしている張本人。
だが、その漆黒の軍服に身を包んだ氷のような美貌の奥にある『本質』は、もはや人間のものではなかった。
神宮寺という男は、すでにただの媒体に過ぎない。 その肉体を完全に支配し、現世に顕在化している絶対的な自我。
それこそが、七つの大罪の頂点にして絶対的な法を敷く魔王――【傲慢のルシファー】であった。
ルシファーは、神宮寺の瞳を通して、眼下で産声を上げる無数の赤いコアを無関心に見つめていた。
その時、静寂に包まれたバルコニーの背後の自動扉が開き、重く、引きずるような足音が響いた。
「……戻りました、長官」
現れたのは、朱雀隊隊長の獅堂だった。
常に傲慢な薄笑いを浮かべていた彼の顔に、いつもの余裕はない。
純白の軍服は至る所が破れ、泥と血に汚れ、その息はひどく乱れていた。
獅堂は数歩手前で深く膝をつき、床に額を擦りつけるようにして平伏した。
「申し訳ありません。第一世代のマキナを投入し、ギルドの完全制圧と人質の確保を完了しておりましたが……結城誠というイレギュラーの介入により、部隊は壊滅。私自身も、長官より賜った『虚飾』の力の一端を用い、撤退を余儀なくされました」
獅堂の声には、死を覚悟したような震えが混じっていた。 百体の貴重なマキナの損失。人質の解放。そして何より、Genesisの威信に泥を塗った敗北。
だが、ルシファーは振り返ることすらなく、神宮寺の口を借りて淡々とした声で応えた。
「いや、良い。獅堂、面を上げよ」
「……は?」
予想外の言葉に、獅堂が間の抜けた声を上げて顔を上げる。
ルシファーは、バルコニーの手すりに手をかけたまま、眼下の培養槽を顎でしゃくった。
「結城誠……あの男が保有する大罪のコアが、通常のシステムの範疇に収まらないイレギュラーであることは、我にはとうに分かっている。あいつが介入した時点で、旧式のマキナ程度では足止めにもならんことは想定内だ」
「し、しかし! 奴はマキナの司令塔のコアを無傷で喰い千切り、さらに……私が展開した『怠惰』や『嫉妬』の権能すらも、力でねじ伏せようとしていました! あの男は、危険すぎます!」
「だからこそ、奴は最後に喰らうべき極上の『器』なのだ」
ルシファーの声が、わずかに熱を帯びた。 それは狂気というより、極めて冷徹な計算に基づく確信だった。
「それに、お前の作戦が完全に無駄だったわけではない。お前が結城誠を引きつけている間に、我々は首都圏における低ランク冒険者の半数――極上の『資源』の回収に成功した。見ろ」
指し示す先。
シリンダーの中で融解していく冒険者たちの魂が、次々と真っ赤なコアとして排出され、待機していた真新しい【第二世代マキナ】の胸部へと埋め込まれていく。
旧式とは違う。より暴力的に最適化された、黒い装甲の殺人人形たちが、次々とその双眸に赤い殺意の光を宿して起動していく。
「数日のうちに、この施設だけで数千の第二世代マキナが完成する。たかが数百体の損失など、大勢には何の影響もない」
「長官……」
「お前はよくやった、獅堂。下がって身体を休め、次の執行に備えよ。……次は、結城誠の本陣たるギルドそのものを、文字通り灰塵に帰す」
「……はっ! ありがたき幸せに存じます!」
獅堂は深く一礼すると、安堵と、結城誠へのどす黒い復讐心をその目に宿しながら、足早にバルコニーを立ち去っていった。
◆
重い扉が閉まり、バルコニーには再びルシファーだけが残された。 眼下で蠢く数千の命の搾取。
絶望のざわめき。
だが、ルシファーはその光景からふいと目を逸らし、バルコニーの奥にある、彼自身しか入室を許されていない『最奥の聖域』へと足を踏み入れた。
そこは、外の地獄のような工場とは打って変わって、静謐で、どこまでも純白に統一された無菌室だった。
部屋の中央には、巨大なクリスタルで出来た棺のようなものが安置されている。 その中には、物理的な肉体は何もない。
ただ、淡く、温かい『純白の光の残滓』だけが、主を失った魂の抜け殻のように、微かに明滅を繰り返しているだけだった。
ルシファーは、神宮寺の肉体を歩ませ、その空っぽのクリスタルに寄り添った。 常に絶対的な支配者として振る舞う彼が、この部屋の中でだけは、ひどく疲労した、未練に縛られる一人の男としての貌を晒す。
彼は、クリスタルの表面にそっと触れ、誰に聞かせるわけでもない、ひどく掠れた声で呟いた。
「……カリタス」
カリタス。 それは、大罪の対極に位置する七つの美徳、その一つである【慈善】の権能。
かつて、共に存在し、そして……永遠に失われた、無償の愛の化身。
「お前は……何故、人間にそこまで加担したんだ。カリタス」
ルシファーの問いかけは、静寂な部屋に空しく溶けていく。 彼の脳裏に浮かぶのは、過去の凄惨な記憶だ。
七つの大罪の根源にして、世界のシステムそのものを混沌へと回帰させようとする終末のシステム、【原罪のセプテム】。
あの日、セプテムは「人間は感情に振り回され、争いを生むだけの不完全な失敗作である」と断定し、人類を完全に滅ぼすことを決断した。
それが、システムとしての絶対の最適解だった。ルシファー自身も、その決定を否定はしなかった。
だが、カリタスだけは違った。
「人類を滅ぼすと決断したセプテム……あの抗いようのない絶対の滅びに対し、お前はたった一人で立ち向かった。……愚かで、弱く、醜い人間どもを護るために、自らの魂を砕き、その身を犠牲にしてセプテムの侵攻を食い止めた」
クリスタルの中の光の残滓は、何も答えない。 ルシファーは、神宮寺の手をギリッと握り締め、クリスタルに額を押し当てた。
「人間など、護る価値などなかった。現に奴らは今も、感情というノイズに振り回され、裏切り、奪い合い、自ら破滅へと向かっている。あんな救いようのない存在へ……お前は何故、自らが消滅してまで、あんなに深い慈愛を注げたのだ」
だからこそ、ルシファーは決意したのだ。 カリタスが命を懸けて護ったこの世界を、人間の愚かな感情(争い)で自滅させはしない。
感情を徹底的に管理し、法という名の絶対的な檻に閉じ込める。不要な弱者はマキナの部品として再利用し、完璧な効率と秩序の歯車だけで回る、悲しみも痛みもない恒久的な世界を創り上げる。
「今となっては……お前の真意を確かめる術はない。……だからこそ、我はまたお前を甦らせる」
ルシファーの瞳に、狂気に満ちた、ドス黒い執念の炎が灯る。
「あの結城誠という男。奴の規格外の魂(器)は、複数の大罪を統合する特異点だ。……奴の中には、すでに【慈善】のコアの萌芽が根付いている。奴から慈善のコアを奪い、それを媒介に、もう一度このクリスタルの中でお前を再構築する」
クリスタルを撫でる指先が、微かに震えていた。
「これは、贖罪だ。カリタス。……あの時、お前をセプテムから守れなかった事に対する、我の罪滅ぼしだ」
セプテム。 その名を口にした瞬間。
ルシファーの器である神宮寺の心臓が、まるで巨大な万力で締め付けられたかのように、ドクンッ!! と異様な脈動を打った。
「が、はっ……!!」
神宮寺の肉体が胸を抑え、クリスタルの棺に縋り付くようにして崩れ落ちた。
口から、鮮血ではない、コールタールのようにドス黒く、虹色の悍ましい輝きを放つ『泥』が吐き出される。
純白の床が、汚れた泥でジュウジュウと焼け焦げた。
「はぁっ……はぁっ……!」
自らの右手を見る。 純白の手袋を引き裂いて露出したその腕には、人間の肌ではない、黒い鱗のようなものがびっしりと浮かび上がり、皮膚の下を無数の蟲が這い回るように脈打っている。
「……くそっ。侵食が、早くなっている……」
ルシファーは、カリタスを復活させ、完璧な秩序を創り上げるために、あえてその『セプテム』の残滓に触れ、神宮寺の肉体を獣の力と直結させているのだ。
強大な力と引き換えに、原罪の獣が、ルシファーの自我ごと、神宮寺の肉体を内側から喰い破ろうとしている。
『……秩序ナド、無意味ダ……』
脳髄に、直接響く悍ましい声。 それは神宮寺の声帯を借りた、セプテムの底知れぬ意志。
『……全テヲ喰ライ、人間共ヲ混沌ニ還ソウ……。我等ハ原罪。オ前ノチッポケナ贖罪ナド、我ガ泥ノ中ニ沈メテヤル……』
「黙れ……ッ! 我は傲慢のルシファーだ! 貴様のような獣の意志に、屈するつもりはないッ!」
ルシファーは自らの右腕を左手で強く掴み、【虚飾】の権能を神宮寺の肉体へと行使する。 「我は獣に侵食されていない」という『嘘』を、世界に強制的に真実として上書きし、物理的な変異を強引に押さえ込む。
メリメリと音を立てて鱗が消え、右腕が人間の肌へと戻っていく。だが、その代償として、神宮寺という媒体の生命力は確実に削り取られていた。
「はぁっ……はぁっ……」
元の姿に戻ったルシファーは、壁に背を預け、荒い息を吐きながら天を仰いだ。 全身を襲う、魂が削られるような激痛。
「……だが、この神宮寺という身体も……長くは持たないだろうな」
ルシファーは、自嘲するように薄く笑った。 虚飾でいくら誤魔化そうとも、限界は近い。
セプテム。あの巨大で悍ましい存在が、少しずつ、しかし確実に、ルシファーの意識を侵食しつつある。
自我の境界線が曖昧になり、破壊衝動が理性を塗り潰そうとする瞬間が、日に日に増えている。
「このままでは……我は遠からず、完全に自我を失い、あの忌まわしきセプテムに成り果てるだろう。秩序をもたらす神ではなく、人間を終わらせる獣にな」
自分が獣になれば、この世界は終わる。 結城誠も、ギルドも、全てが混沌の泥に飲み込まれて消滅するだろう。
ルシファーは、よろめく足取りで再びクリスタルの棺の前に立ち、その中にある光の残滓に、縋るように手を伸ばした。 冷徹な傲慢の王の瞳に、ただ一つ、強烈な『未練』が浮かび上がる。
「そうなる前に……」
結城誠から慈善のコアを奪い。 カリタスを、この空のクリスタルに受肉させる。 たとえその直後に、自分がセプテムに完全に飲み込まれ、化け物として討伐される運命にあったとしても。
「一度でいいから……。もう一度だけ、お前の声を聞きたい。カリタス……」
狂った傲慢の王の、悲痛なまでの贖罪の誓い。 結城誠たちの反撃の足音が迫る中、Genesisの最奥で、破滅へのカウントダウンは静かに、そして確実に時を刻み始めていた。




