恋するオトメ?
それから数日間。
日本ギルドが誇る天才剣士、Aランク冒険者の日向ヒナは、まるでハチ公のように毎日ギルド本部のロビーに現れ、ソファに座って入り口をジッと睨みつけるようになった。
周囲の冒険者たちは、「氷の剣姫が誰かを待ち伏せしている」
「獲物を狙う鷹のような目をしている」と恐れおののき、彼女の座るソファの周囲には、半径五メートルの誰も近づけない空白地帯ができあがっていた。
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「……今日もお兄さん、来ないなぁ」
ヒナは缶コーヒーを両手で包み込みながら、小さくため息をついた。
ギルド本部のエントランスには、毎日何千人という冒険者や関係者が出入りする。
その中から、いつ来るとも分からない一人の男を見つけ出すのは、砂浜で一粒のダイヤモンドを探すようなものだ。
(でも、絶対に諦めない。私には、彼を見つけるための『切り札』があるんだから)
ヒナは目を閉じ、スンッ、と鼻から大きく息を吸い込んだ。
彼女のスキル【超感覚】。
それは視覚や聴覚だけでなく、嗅覚までも常人の何十倍にも引き上げるパッシブスキルだ。
ヒナの脳裏には、獄炎の地下神殿で彼に助けられた時、間近で嗅いだ『あの匂い』が、鮮烈に焼き付いていた。
焦げた空気の匂い。
少しピリッとするような魔力の残り香。
そして――それらとは全く不釣り合いな、特売の安い衣料品用洗剤の、どこか安心するような生活感のある香り。
その三つが絶妙にブレンドされた『結城誠の匂い』を、ヒナは人混みの中でも絶対にかぎ分ける自信があった。
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「……ん?」
その日の午後。
ウトウトと微睡みかけていたヒナの鼻腔を、ふわりと『それ』が撫でた。
「……っ!!」
ヒナは弾かれたように目を見開き、ソファから立ち上がった。
間違いない。エントランスの自動ドアの方角から、あの地下神殿で嗅いだのと同じ、強烈なオーラの残り香と安い洗剤の匂いが漂ってきたのだ。
ヒナが視線を向けるとそこには、ジャージを着た見覚えのある背中があった。
隣には、小柄で可愛らしい少女(美桜)を連れている。
(い、いた……! 結城さんだ!!)
ヒナの心臓が、ドッドッドッと爆発しそうなほどの勢いで高鳴り始めた。
やっと見つけた、やっと会えた。
ヒナは無意識のうちに自分の髪型を整え、防具の汚れがないかを確認し、深呼吸をしてから、彼に声をかけようと一歩を踏み出した。
「あ、あの! 結城さ――」
「……ん? おい、お前……」
ヒナが声をかけようとしたその瞬間、横から割り込むようにして、恰幅の良い中年の男――関東支部長たちの一団が、結城誠の行く手を塞いだ。
(えっ……な、なに?)
ヒナは咄嗟に近くの太い大理石の柱の陰に身を隠し、様子を窺った。
聞こえてきたのは、関東支部長による、あまりにも一方的で下劣な嘲笑だった。
『お前は数ヶ月前に、この私直々にクビを言い渡したはずだろう?』 『適性ゼロの無能だったんですよ。ギルドの経費の無駄なので、私が英断を下して人員整理してやったのさ』
その言葉に、柱の陰に隠れていたヒナは、雷に打たれたような衝撃を受けた。
(結城さんが……クビにされた? 適性ゼロの無能……?)
信じられなかった。
あんなに強くて、あんなに優しくて、誰よりも冒険者らしいあの人が、こんな薄汚い豚のような男に『無能』と見下され、理不尽にギルドを追放されていたなんて。
ヒナの手にギリッと力が入り、柱の大理石にヒビが入る。
今すぐ飛び出して、あのふざけた支部長を物理的に両断してやりたい衝動に駆られた。
だが、その直後。
結城誠が、冷徹な声で支部長に言い放った言葉が、ヒナの心をさらに激しく揺さぶった。
『あんたが俺をリストラして、あんな底辺のダンジョンに突き落としてくれたおかげで……俺は「強くなる力」を拾うことができた。
そして、美桜の命を助けることができたんだ』
「あ……」
ヒナの口から、小さく吐息が漏れた。
点と点が繋がり、彼という人間の輪郭が、ヒナの中で完全に形作られていく。
結城誠は、生まれながらの天才や、選ばれたエリートなどではなかった。
ギルドから見捨てられ、社会からも適性ゼロの烙印を押され、それでもたった一人の妹を救うためだけに、血反吐を吐きながら絶望のどん底から這い上がってきたのだ。
閑話 日向ヒナの焦燥と、甘く危険な追跡
その結果手に入れたのが、あの悪魔すらも凌駕する、理不尽なまでの圧倒的な『力』。
――なんて、なんて尊くて、気高い人なんだろう。
ヒナの瞳が、トロンとした熱を帯びていく。 自分のような、才能に恵まれてトントン拍子でAランクに上がった人間とは違う。
彼は本当の地獄を知り、本当の絶望を乗り越えてきた、真の強者なのだ。
その事実に気づいた瞬間、ヒナの脳内で、これまで抑え込んでいた何かが『プツン』と弾ける音がした。
(結城さんは……一人で、ずっと一人で戦ってきたんだ。妹さんの命を背負って、こんな理不尽な大人たちから虐げられながら……)
ヒナの呼吸が、次第に荒くなっていく。
柱の陰で、彼女の想像(妄想)は、もはや彼女自身にも制御できないほどの暴走を始めていた。
(ダメだよ、そんなの……。結城さんは、もっと報われなきゃいけない。誰かが、彼を甘やかして、彼を支えてあげなきゃいけないんだわ)
ヒナの両手が、無意識に自分の胸を強く掻き抱く。
(私……私なら、結城さんの背中を守れる。
Aランクの稼ぎがあるから、妹さんの治療費だって生活費だって、私が全部出してあげられる!
毎日美味しいご飯を作ってあげて、お風呂の準備もして……そうよ、結城さんが疲れて帰ってきたら、私が膝枕でヨシヨシしてあげるの!)
ヒナの脳内に、ジャージ姿の誠と、エプロン姿の自分が、古びたアパートで新婚生活を送るという、ピンク色に染まった凄まじい幻覚が上映され始める。
(あんな豚みたいな支部長に、結城さんを侮辱させたりしない。結城さんに近づく悪い虫は、私が全部、この剣でみーんな綺麗にお掃除してあげる……。結城さんは、ただ私だけを見て、私の用意した温かいご飯を食べて笑ってくれれば、それでいいの……!)
ヒナの瞳からハイライトが消え、どこか暗く、ねっとりとした『病み』の色が宿り始める。
尊敬。憧れ。感謝。
それらの感情は、彼の過酷な過去を知ったことで、重く、深く、狂気すら孕んだ『偏愛』へと急速に発酵してしまっていた。
(ああ、結城さん……誠さん……! 今すぐあなたに抱きついて、私の全部を捧げたい……っ!)
ヒナが恍惚とした表情でヨダレを拭い、柱の陰から飛び出そうとした、その時だった。
「……あれ?」
ヒナが我に返ってロビーの中心に視線を向けると、そこには、右手を抱えて床で絶叫し、完全に廃人と化した関東支部長と、それを冷たく見下ろす片桐ギルドマスターの姿しかなかった。
「……あれ、結城さん、は?」
ヒナが慌てて周囲を見回す。
だが、彼の姿はどこにもない。
ヒナがピンク色の重い妄想の世界にトリップしている間に、誠は妹を連れて颯爽とギルド本部を後にしていたのだ。
「うそ……っ。行っちゃった……?」
ヒナは膝から崩れ落ち、大理石の床に両手をついた。
またしても、声をかけるチャンスを逃してしまった。自分の妄想癖のせいとはいえ、あまりにもタイミングが悪すぎる。
「あぁん……結城さぁん……」
ヒナは床に突っ伏したまま、数分間、屍のようにピクリとも動かなかった。
だがやがて、彼女の肩がプルプルと震え始め――ヒナはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの絶望感はなく。 代わりに、獲物を絶対に逃さない、肉食獣のようなゾクッとするほど冷たく、甘い光が宿っていた。
「……ふふっ。逃がさないわよ、誠さん」
ヒナは立ち上がり、スンッ、と鼻を鳴らした。
彼が先ほどまで立っていた場所に残る、安い洗剤と、あの圧倒的なオーラの匂い。
ギルド本部のエントランスから外へと向かって、その匂いの痕跡が、ヒナの嗅覚にはまるで光る糸のようにハッキリと見えていた。
「もう、ギルドのデータベースなんて必要ないわ。……あなたの匂いは、私が細胞の隅々まで完璧に覚えたもの。
この匂いを辿っていけば、あなたの『お家』にだって、いつだって遊びに行けるんだから」
ヒナの口角が、三日月のようにつり上がる。
「待っていてね、誠さん。次は絶対に、私の方からあなたの懐に飛び込んであげる……。
絶対に、絶対に、私の愛で、あなたを幸せにしてあげるから……!」
天才剣士であり、Aランク冒険者の日向ヒナ。
彼女の純粋すぎる感謝の気持ちは、度重なるすれ違いと妄想の果てに、極めて重度で厄介なストーカー気質へと見事なクラスチェンジを遂げていた。
特売のジャージを着た規格外の男の平穏な日常に、神や悪魔よりもタチの悪い『重すぎる純愛』という名の理不尽が迫りつつあることを、この時の結城誠はまだ知る由もなかった。




