閑話 日向ヒナの焦燥2
――数時間後。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
『嘆きの迷宮』の入り口である洞窟から、一人の少女が転がり出るようにして外へと飛び出してきた。
銀色のポニーテールは乱れ、防具のあちこちが破損し、美しい顔には煤と魔獣の返り血がこびりついている。
日向ヒナは、通常のパーティが数日がかりで攻略するAランクの迷宮を、単騎で、わずか数時間という異常な速度で完全踏破してのけたのだ。
「早く……早く、空港へ……!」
呼吸を整える間も惜しんで、ヒナは震える手でスマートフォンを取り出した。
ギルドへクエスト完了の報告を送り、同時に九州行きの特別便の手配をしようとした。
だが、スマートフォンの画面を開いた彼女の目に飛び込んできたのは、予想外の『追加通知』だった。
【続報:九州・阿蘇防衛戦について】
【悪魔公爵の討伐、およびスタンピードの完全鎮圧を確認。被害状況:民間人の死者ゼロ】
【防衛線は解散。九州一帯の警戒レベルを通常に引き下げます】
「……え?」
ヒナは自分の目を疑った。
特級ランクの悪魔が率いる数万の魔獣の群れ。
それが、わずか数時間で鎮圧された?
しかも、民間人の死者がゼロ?
日本のトップギルドが総力を挙げても、そんな奇跡のような結果が出せるとは到底思えなかった。
ヒナは震える指で、ギルドの裏掲示板や、現地の冒険者たちが発信している非公式の情報を必死にスクロールした。
そこに書き込まれていた目撃情報は、どれもこれも信じがたい内容ばかりだった。
『マジでヤバかった。数万の群れが、たった一人の攻撃で空の彼方に吹き飛んだ』
『悪魔の極大魔法を、真正面から素手で叩き割ってたぞ』
『全身から黄金色のオーラ、いや、最後は純白の光を放って、悪魔を拳のみで消し飛ばした』
『あの規格外の化け物、ジャージ着てたんだけど……どこの英雄だよ』
――『ジャージ姿の男』。
その単語を見た瞬間、ヒナの心臓がドクンッ! と大きく跳ねた。
スマートフォンの画面を見つめたまま、彼女の時間が停止する。
(ジャージの……男の人……?)
圧倒的な暴力。素手で魔獣を粉砕する規格外の力。
そして、どう考えても戦場には場違いな、ジャージ。
間違いない、獄炎の地下神殿で、絶望の淵にあった私を救い出してくれた、あの人だ。
ヒナの頭の中で、すべての点と点が、強烈な電流となって結びついた。
ただの偶然かもしれない。世の中には奇抜な格好をした冒険者もいるだろう。
だが、ヒナの剣士としての直感が、女としての魂が、「絶対に彼だ」と確信していた。
(また……あの人が、助けてくれたんだ……)
ヒナの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
地下神殿で自分の命を救ってくれたばかりか、今度は、自分が何よりも大切にしている家族の命を、故郷を、あの人が救ってくれたのだ。
その事実は、彼女の中の『お礼を言いたい』という気持ちを、もはや抑えきれないほどの『絶対の使命感』へと昇華させていた。
「探さなきゃ……。絶対に、見つけ出さなきゃ……!」
ヒナは汚れた顔を乱暴に拭い、立ち上がった。
♦︎
だけど、どうやって探す?
現地の情報は錯綜しており、ギルド本部も「身元不明の英雄」として情報を完全に統制しているようだった。
一般のAランク冒険者であるヒナが、ギルド本部の情報規制を突破するのは不可能に近い。
「誰か……ギルドの裏情報に詳しくて、ものすごく顔の広い人……」
ヒナはスマートフォンの連絡先をスクロールし、ある一つの名前にピタリと指を止めた。
『剣崎(師匠)』
日本ギルドが誇るトップ冒険者であり、Sランクの称号を持つ男。
そして、ヒナに剣術の基礎と冒険者としての心構えを叩き込んでくれた、彼女の直接の師匠である。
彼ほどの男であれば、上層部の極秘情報や、規格外の強者についての噂を知っているかもしれない。
ヒナは祈るような気持ちで、通話ボタンを押した。
◆
数回のコールの後、ガチャリと電話が繋がった。
『おー、ヒナか。どうした? 珍しいな、お前から電話なんて。指名依頼は終わったのか?』
電話の向こうから、相変わらず飄々とした、どこか気の抜けた剣崎の声が聞こえてきた。
「師匠! お疲れ様です! 依頼はたった今、終わらせました! それより、師匠にどうしてもお聞きしたいことがあって電話したんです!」
『ん? なんだ、そんなに慌てて。剣の振り方でも忘れたか?』
「違います! 人を探しているんです!」
ヒナは早口で、かつて自分が地下神殿で助けられたこと、そして今日の九州のニュースで流れていた『ジャージの英雄』についての情報を一気にまくし立てた。
「ものすごく強くて、素手で魔獣を粉砕して……その、ジャージを着ている男の人なんです! 師匠ほど顔が広ければ、誰か心当たりはありませんか!?」
ヒナが必死に問いかけると、電話の向こうの剣崎は、ピタリと沈黙した。
『…………ジャージ、ねぇ』
「心当たり、ありますか!?」
『うーん……』
剣崎は、どこか頭を掻いているような、複雑な声を出した。
『いや、心当たりっていうか……ジャージをいつも着てる、同い年のおっさんなら、一人知ってる』
「本当ですか!?」 ヒナの顔がパァッと明るくなる。
『でもなぁ、あいつは違うと思うぞ。ヒナ、お前が言ってるのはSランクの悪魔を素手で殴り殺すような化け物なんだろ?
俺の知ってるそいつは、冒険者の『適性ゼロ』で、ずっとギルドの事務員やってた奴なんだ。
戦闘能力なんて皆無だよ。最近、関東支部をリストラされて、今は護衛のマネゴトみたいなことをやってるらしいが……』
「適性……ゼロ……?」
ヒナは息を呑んだ。
普通に考えれば、そんな裏方の事務員がSランクの悪魔を倒せるわけがない。
剣崎が否定するのも無理はない。
しかし、ヒナの直感は、それこそが真実だと告げていた。 『適性ゼロ』。
システムから見放された存在。
だからこそ、あの人の強さは、システムの常識を完全に超越した、あそこまで理不尽なものであったのではないか。
「師匠! どんな些細なことでもいいです! お願いします、その人の名前を教えてください!」
ヒナのあまりにも必死な剣幕に、電話の向こうの剣崎は少し驚いたように息を吐いた。
『……おいおい、本気か? まあ、教えるのは構わねえけどよ。あいつは英雄なんてガラじゃねえぞ。
本当にただの、うだつの上がらないおっさんだぞ?……名前は、『結城誠』。俺と同期で協会に入った腐れ縁だよ』
「結城……誠……さん」
ヒナは、その名前を自らの舌でゆっくりと転がした。
結城誠。
地下神殿で圧倒的な力を見せつけ、背中で語った男。
九州の危機を救い、ヒナの家族を守ってくれた人。
その男の輪郭が、ようやく名前という形を持ってヒナの中に刻み込まれた。
「師匠、ありがとうございます! 私、その結城さんに会いに行きます!」
『おいおい、待てヒナ! あいつは今京都に……って、切れちまったか』
ヒナは剣崎の言葉を最後まで聞かずに、勢いよく通話を切った。
心臓が、ドクドクと早鐘を打っている。
疲労で重かったはずの身体に、新たな活力が満ち溢れてくるのを感じた。
「結城、誠さん……」
ヒナは夕焼けに染まる関東の空を見上げた。 きっと、彼はあんな大事件を解決した後だ。
ギルド本部のある東京へと戻ってくるに違いない。
命の恩人であり、家族の恩人。
この借りを返すまでは、絶対に引き下がらない。
「待っていてください、結城さん。……私、絶対にあなたを見つけ出しますから!」
日向ヒナの瞳に、かつてないほどの強い決意の炎が宿った。
彼女の純粋すぎる執念が、ジャージの男の平穏な日常をさらに引っ掻き回すことになるのは、まだもう少し先の話である。




