マッハな退院
翌朝。約束通り、俺は退院の準備を整えていた。
準備と言っても、ドドンキのレジ袋から取り出した予備のジャージに袖を通しただけだ。
内側のダメージはだいぶマシになったものの、骨にヒビが入っていた名残で、ジャージの隙間からは未だに痛々しい包帯が何重にも覗いていた。
「……結城。本当に正気か?」
病室の窓の外を見下ろしていたギルマスが心底困り果てたような顔で振り返った。
彼の視線の先――病院の正面ロータリーはもちろんのこと、本来なら一般人が立ち入らないはずの裏口や関係者用駐車場の周囲に至るまで、黒黒とした人だかりができていた。
カメラを構えた記者や、マイクを握ったアナウンサー、さらには「ジャージの英雄」を一目見ようと集まった野次馬たちが、幾重にも人垣を作って敷地を完全に包囲している。
「京都ギルドの防衛班が必死に規制線を張っているが、これじゃあ出るだけで一苦労だな。
裏口もこの有様だから、どれだけ警備を厳重にしても一歩外に出た瞬間にフラッシュの嵐で君の顔が完全に割れてしまうぞ」
ギルマスは深くため息をつき、お偉方への対応で疲れ切った頭を押さえた。
日本のトップ冒険者が勢揃いしても解決できなかった国難を、ただ一人の男が素手でぶっ壊したのだ。メディアが狂乱するのも無理はなかった。
しかし、当の本人の俺は、ジャージの首元をグッと引っ張って包帯を隠しながら、フッと不敵に笑ってみせた。
「大丈夫ですよ、マスター。俺に任せてください」
「任せてくださいと言われてもな……。
隠密系のスキルでも持っているなら話は別だが、君の能力はどちらかと言えば――」
『ふん、主の脳筋ぶりに何を期待しておるのじゃ、こやつは』
脳内で、グリ子が呆れたように鼻で嗤った。
『隠密などという小細工、この主が使えるわけなかろうて。
どうせまた、自分の異常なステータスに物を言わせて、力技で押し通るだけに決まっておるわ』
『グリ子の推測は98.7パーセントの確率で的中しています』
トラ子が淡々と補足する。
『マスターの【敏捷】ステータスは、現在の負傷状態によるデバフを差し引いても、常人の認識速度を遥かに凌駕しています。
光学的な隠密スキルを使用せずとも、純粋な物理速度のみで視覚的死角を突破することは十分に可能です』
「じゃあマスター、東京でまた会いましょう」
「おい、結城!? 待て、まだ作戦を――」
ギルマスの制止の声を背中で聞き流しながら、俺はあらかじめトラ子のスキャンで割り出しておいた、最も報道陣の密度が薄い「職員用の小さな通用口」へと向かって歩き出した。
◆
同時刻、病院の片隅にあるひっそりとした関係者用通用口。
そこには、ギルドから派遣された臨時の警備員が2名、所在なさげに立っていた。
どこかで見覚えのある顔だと思えば、かつて俺が東京の特級ダンジョンから生還した際、ゲートの入り口で警備をしていたあの2人組だった。
なぜこんな京都の特別病棟の警備に駆り出されているのかは謎だが、どうやらギルドの事務方の人手不足は深刻らしい。
「なぁ、聞いたか? 九州の阿蘇で暴れてたSランクの悪魔公爵、たった一人の冒険者に瞬殺されたらしいぜ」
警備員Aが、退屈しのぎに小声で噂話を始めた。
「ああ、ギルドの連中もその話で持ちきりだよ。
なんでも、全身からもの凄い黄金のオーラを放ちながら空を飛んで突撃して、拳一つで悪魔の極大魔法ごと消し飛ばしたって話だ。
一体どこの冒険者なんだろうな」
警備員Bが、憧れと畏怖の入り混じった溜息をつく。
「噂だと、いつも特売の安っぽいジャージを着てるらしいぞ。
……まぁ、そんな凄腕のヒーローが、今この病院の上の階に寝てるって言うんだから、外の記者たちが血眼になるのも分かるわな」
「へえ、ジャージか。強者の拘りってやつか? 一度でいいから拝んでみたいもんだよな。
……おっと、誰か来――」
警備員Aが、通用口の奥の通路から足音が近づいてくるのに気づき、視線を向けた。
通路の奥から歩いてきたのは、頭から首、そして腕に至るまで全身に包帯を巻き、その上から妙に色あせた緑色のジャージを着た、ひどく怪しいおっさんだった。
怪しいおっさんと、警備員2人の視線が、一瞬だけ交差する。
次の瞬間だった。
突如として、通用口の空気が爆ぜたかのような猛烈な風圧が吹き荒れた。
バチバチバチッと、激しい衝撃が周囲の防壁の結界を揺らし、警備員2人の衣服と髪が強烈な向かい風によって後ろへと激しく引っ張られる。
「ぶふぉっ!?」
「うわっとっと!?」
2人が思わず腕で顔を覆い、目を開けた時には。
目の前の通用口の扉が、ガタガタと激しく音を立てて揺れているだけで、そこにはもう誰もいなかった。
「……ん? おい、今通用口から何か出なかったか?」
警備員Aが、目をシパシパさせながら周囲を見回した。
「えっ? 何も見えなかったぞ。気のせいだろ……風か?」
警備員Bが、自身の乱れた髪を直しながら首を傾げる。
「いや、なんか……全身に包帯を巻いたジャージ姿のおっさんの残像が、マッハで駆け抜けていったような……」
警備員Aは、呆然と開いたままの通用口の扉を見つめ、自らの額を押さえた。
「って、俺……以前も東京のダンジョンの入り口で、似たようなパンイチのおっさんがマッハで走り去る幻覚を見た気がするんだが……」
警備員Bは、深い同情の入り混じった目で相棒の肩をポンと叩いた。
「おいおい、深刻だな……。この前紹介したメンタルクリニック、やっぱりダメだったか?
今度はもっと評判のいい、新しいやつを紹介してやろうか?」
「いや、本当に見えたんだって! 確かに包帯のおっさんが――」
俺は背後を一切振り返ることなく、報道陣のカメラが捉えることすら不可能な速度で裏路地の闇へと滑り込んだ。
(よし、顔バレは防げたな)
俺は物陰で一度立ち止まり、ジャージのポケットに手を突っ込んでフッと息を吐いた。
全身の包帯が風圧で少し解けかけていたが、そんなことはどうでもいい。
これから真っ直ぐ新幹線に飛び乗り、東京の我が家へと帰るのだ。
そこには、俺の帰りを心配して待っている母親と、美味しいハンバーグを作って待ってくれている美桜がいる。
背後で騒がしく鳴り響く報道陣の声も、世界を揺るがす神や悪魔の思惑も、今の俺には一切関係のないことだった。
俺はドドンキの袋から取り出したキャップを深く被り、足早に京都の駅へと向かって、軽やかな足取りで駆け抜けていった。
どうしても入れたかったお話です。




