原初の蛇
――場所は変わり、現実世界から遠く離れた『異界』。
人間の魂の奥底、無意識の集合が形作る概念宇宙の最深部。
そこは、果てしなく続く『泥の海』があった。
赤黒く濁り、ブクブクと泡立つ粘体の海。
誰かが誰かを羨む心。
他者の成功を妬み、引きずり下ろそうとする醜い感情。
持たざる者が持つ者へ向ける、底なしの悪意。
そうした世界中の人間から発せられる「嫉妬」の感情が、雨のように降り注ぎ、生まれては消え、生まれては消えを繰り返す空間。
これまでは、この海の底に鎮座する『嫉妬のシステムコア』が、その莫大な負のエネルギーを吸収し、世界への影響を最小限に抑えるための「循環装置」として機能していた。
大罪のコアとは、システムが用意した偽りの器であり、暴走を防ぐための巨大な『重石』だったのだ。
だが、今。
阿蘇での戦いによって、結城誠の【慈善】の極光がシステムコアを完全に粉砕したことで、その重石は消滅した。
行き場を失った莫大な嫉妬のエネルギーが、循環されることなく泥の海に滞留し、どす黒い渦を巻き始める。
限界を超えた負の感情の重圧が、海の底のさらに奥深く――システムが意図的に隠蔽し、何百年もの間封じ込めていた『次元の檻』を、メリメリと軋ませていた。
『……ァ……』
泥の海の底。
光すら届かない絶対の暗闇の中で、それはゆっくりと目蓋を開いた。
鈍色に輝く、爬虫類のような巨大な縦長の瞳孔。
それが一つ、また一つと暗闇に浮かび上がる。
『……封印が、消えた……?』
地鳴りのような、あるいは深海から響くような、重く冷たい声が異界を震わせた。
システムが構築される遥か昔。
この世界がまだ一つの混沌であった時代から存在する、原初の悪魔。
偽りの器であるシステムコアではなく、大罪『嫉妬』という概念そのものが受肉した、真なる絶望の化身。
ズズズズズズズッ……!!
泥の海が真っ二つに割れた。
深淵から姿を現したのは、山脈ほどもある巨大な『蛇』だった。
漆黒の鱗は一つ一つが強固な盾のようであり、その巨体はとぐろを巻くだけで空間の次元を歪ませている。
その名は『蛇』。
またの名を、原初の海を統べる水竜――リヴァイアサン。
『……忌々しい白衣の偽神どもが作り上げた、陳腐な封印……。
我らから力を奪い、あまつさえ我々の力の一部を『大罪スキル』などという玩具に変えて矮小な器に押し込めていた、あの忌まわしきコアが……砕け散ったというのか』
リヴァイアサンは巨大な鎌首をもたげ、空の無い異界の上空を見上げた。
彼の知覚は、遥か彼方の現実世界で起きた事象を、そして純白の空間で慌てふためく管理者たちの姿を、すべて正確に理解していた。
『……人間。結城誠、と呼んだか。あの小さき者が、我々を縛り付けていた鎖の一つを断ち切ったのだな』
リヴァイアサンの巨大な体が光に包まれ、圧縮されていく。
山脈ほどの巨体が急速に縮み、やがて泥の海の上に降り立ったのは、一人の『人間』の姿をした存在だった。
艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。
性別を超越したような妖艶な美しさを持つその姿は、一見すると美しい人間の若者のようだが、その瞳だけは、底知れぬ嫉妬と悪意を湛えた黄金色の蛇の目のままだった。
「……長かった。本当に、長きにわたる微睡みであった」
人型をとったリヴァイアサンは、自らの手を見つめ、陶酔したように笑みを浮かべた。
背中から伸びる漆黒のオーラが、泥の海のエネルギーを次々と吸収し、彼に果てしない力を供給していく。
システムコアという中継地点を失ったことで、世界中の嫉妬の感情は、すべてこの原初の悪魔へと直接流れ込むようになっていたのだ。
「偽神どもは、この世界を美しく、秩序だったものにしようとした。……だが、それは欺瞞だ」
リヴァイアサンは、虚空に向けて静かに語りかける。
「人間とは、他者を妬み、蹴落とし、自らの欲を満たすために醜く争う生き物。
それこそが生命の真の姿であり、真理。
……システムという名の檻で無理やり本性を抑え込み、レベルや階位という嘘の数字で優劣をつけた偽りの世界など、なんの価値もない」
彼の脳裏に、かつて共に世界を統べていた同胞たちの姿が浮かぶ。
そして、その頂点に君臨していた、最も偉大なる王――セプテム。
「……セプテム。我が同胞よ。あなたの悲願は、決して潰えはしない」
リヴァイアサンは泥の海を歩き出した。
彼が歩みを進めるたびに、異界の空間がヒビ割れ、現実世界への干渉が強まっていく。
「システムを破壊し、偽りの秩序を灰に帰す。すべての魂を原初の混沌へと還し、この歪んだ世界を正しく『再生』させ、救済を与えよう」
結城誠が破壊したのは、悪魔公爵という脅威だけではなかった。
システムが世界の裏側に隠していた、真なる絶望の封印。
それを解き放ってしまったのだ。
原初の蛇は、世界を終わらせるための毒牙を研ぎ澄まし、深い泥の底から現実世界へと、その冷酷な瞳を向けた。




