閑話 欠落した世界の理
無数の半透明のモニターが空中に浮かぶ、果てしなく広がる純白の空間――絶対領域『管理者の間』。
世界のあらゆる事象を観測し、裏側からシステムを調整し続けるこの場所は、常に無機質な電子音と、光の滝のように流れるデータの明滅で満たされている。
その空間の中央に浮かぶ光のコンソールの前で、無造作な髪に白いコートを羽織った男――『管理者』は、片手にマグカップを持ったまま、一つのモニターをじっと見つめていた。
映し出されているのは、京都ギルド本部の特別隔離病棟で、深い眠りについている結城誠の姿だった。
「……管理者様」
背後から、白衣のような制服を纏った監視者が、恭しく頭を下げながら歩み寄ってきた。
その顔には、先ほどまでの激しい動揺は隠され、システムを監視する者としての冷徹な表情が戻っている。
「どうした?またどこかでイレギュラーでも起きたか?」
「いえ。極東エリアの観測データですが、阿蘇のスタンピードは完全に終息しました。
大罪【嫉妬】のシステムコアが消失したことで、周辺の魔素濃度も正常値、あるいはそれ以下にまで低下しています。
……あの結城誠という個体は現在休眠状態に入っており、当面は世界の物理エンジンに負荷をかけるような行動は取らないと推測されます」
「そうか。まあ、あんな無茶をして無理やり神の権能を引き出したんだ。あのバカげた回復力を持っていようと、しばらくは動けないよね」
管理者はマグカップのコーヒーをすり、ふうっと息を吐いた。
「それで? わざわざ報告に来たってことは、何か他にも気になることがあるんだろ」
「……はい。ご推察の通りです」
監視者は空中で指を滑らせ、別のモニターを展開した。
そこに表示されたのは、世界全体を覆うような巨大な球体のホログラム。それはこの世界の『システム』そのものの概念図であり、赤、青、黄など、様々な色の光の脈絡が網の目のように張り巡らされている。
「阿蘇での戦闘において、結城誠は【慈善】の権能を用いて大罪【嫉妬】のシステムコアを『完全破壊』しました。
……我々にとっても、コアの破壊自体は悪しきウイルスの駆除であり、歓迎すべき事態だと先ほどは申し上げました。ですが……」
監視者がホログラムの一部を拡大すると、そこにはぽっかりと『黒い穴』が空いていた。
本来、そこにあるべきだったシステムの一部が、文字通り欠落しているのだ。
「……大罪スキルが完全に消滅した場合、『その後』の世界がどうなるのか。我々のデータベースには、そのシミュレーション結果が存在しません」
監視者の言葉に、管理者はマグカップを下ろし、目を細めた。
「そりゃそうさ。先人の管理者達がこのシステムを構築して以来、大罪コアが完全に消し飛んだことなんて、ただの一度もなかったんだからな」
「はい。大罪の権能は、旧支配者たるセプテムの力を七つに分割し、システムの一部として組み込むことで封印したものです。
言うなれば、この世界の『負の側面』を管理するための巨大なゴミ箱であり、同時にバランスを保つための重石でもありました。
……それが一つ、完全に消滅してしまった」
監視者顔に、隠しきれない焦燥が浮かぶ。
「嫉妬のコアが消失したことで、これまでコアが吸収・管理していた『人を羨む心』や『妬み』といった負の概念エネルギーが、行き場を失っています。
現在のところ実害は確認されていませんが、このまま放置すれば、システムのどこかに未知のバグや歪みを生み出す可能性があります」
「未知のバグ、ね」
管理者は顎を撫でながら、虚空を見つめた。 大罪スキルは、ただの強力な魔法や呪いではない。
この世界に存在する「嫉妬」という概念そのものを縛り付け、制御するためのシステムの一部なのだ。
それが結城誠の理不尽な暴力によって、根こそぎ破壊されてしまった。
(確かに今までになかった事態だ。大罪コアが消滅すれば、当然その権能を持っていた悪魔も、それに付随する呪いも消え去る。
……だが、コアという『器』を失った概念そのものは、一体どこへ行く?)
管理者の絶対的な演算能力を持ってしても、その答えは導き出せなかった。
システムに組み込まれていたはずの歯車が一つ、完全に消え去った。
他の歯車がそれに代わって回るのか、それとも全体が軋みを上げて崩壊を始めるのか。
ふと、管理者の背筋に、冷たい水滴が垂れたような錯覚が走った。
悪寒。あるいは、嫌な予感。
世界のすべてを俯瞰する彼にとって、それは数百年ぶりに感じる、未知に対する『恐怖』に似た感情だった。
「……監視官。引き続き、世界の魔素の流動と、次元の境界線の監視を強化しろ。
特に、人間たちの負の感情が強く集まる場所だ。何かがおかしい」
「ハッ。直ちに監視レベルを引き上げます」
監視者が足早に去っていくのを見送り、管理者は再び結城誠の映るモニターへと視線を戻した。
「……おいおい、ジャージ君。お前がぶっ壊したものは、俺たちの想像以上にデカくて、ヤバいもんだったかもしれないぜ」
画面の中で、妹との電話を終え、穏やかな寝息を立て始めた結城誠。
彼の【強欲】がもたらした破壊は、この世界に救いをもたらしたのか、それともさらなる絶望の蓋を開けてしまったのか。
管理者でさえも、その行く末を見通すことはできなかった。




