病室の攻防と帰る場所2
「……もしもし」
『誠!? ああ、よかった……! 本当によかった……!』
電話の向こうから、今にも泣き出しそうな母親の声が響いた。
その必死な声色に、俺の胸がチクリと痛む。
「母さん、落ち着いて。どうしたん……」
『どうしたじゃないわよ! ニュースで京都のギルド会議が襲撃されたって聞いて……。
その後、ギルドの人からあなたが重傷で特別病棟にいるって連絡が来て……!
母さん、どうしたらいいか分からなくて……ッ』
どうやら、ギルドの事務方が家族への緊急連絡を入れてしまっていたらしい。
俺は片桐マスターを軽く睨みつけた。マスターは「すまない、規則でな……」と口パクで言い訳をしながら気まずそうに目を逸らす。
「ああ……ごめん、心配かけたな。でも大丈夫だ、ギルドの連絡はちょっと大袈裟だったんだよ。
ただの擦り傷みたいなもんだ。明日には退院して帰るから」
『擦り傷って……ギルドの人は、細胞が壊死してるとか、すごく怖いことを言ってたのよ!? 本当に大丈夫なの!?』
「あー、それはその、魔力酔いみたいなもんで……」
俺が適当な嘘で誤魔化そうとしていると、電話の向こうでゴソゴソと音がして、声の主が変わった。
『――お兄ちゃんの、大バカ野郎っ!!』
鼓膜を劈くような、悲痛な叫び声。
俺のたった一人の妹、美桜の声だった。
「み、美桜……」
『大バカ! 嘘つき! 何が擦り傷よ! お兄ちゃんが嘘つく時、ちょっと早口になるの、私が分からないとでも思ってるの!?』
電話越しに、美桜がボロボロと泣いているのが痛いほど伝わってきた。
先ほどまで片桐マスターを相手に放っていた俺の【強欲】の威圧感など、一瞬にして霧散してしまった。
悪魔を素手で粉砕する男も、涙声の妹の前ではただのしがない兄貴に過ぎない。
「わ、悪かった、美桜。泣かないでくれ。お前の心臓に負担がかかるだろ」
『お兄ちゃんが死んじゃったら、私の心臓なんて動いてても意味ないもん……ッ!
お兄ちゃん、約束したじゃない! もう無茶なことはしないって、危ない仕事は断るって!』
美桜の悲痛な声が、俺の心臓をギュッと締め付けた。
俺は京都に来る前、彼女にそう約束していたのだ。ただの護衛だから安全だと。
『テレビでね、九州に悪魔が出たって言ってた。すごい光が光って、悪魔が消えたって。
……あれ、お兄ちゃんなんでしょ?お兄ちゃんが、また一人で無茶して、戦ったんでしょ!?』
「……」
俺は否定できなかった。
美桜は昔から、俺のことになると妙に鋭い。
『ねえ、お兄ちゃん……痛かった? 怖かった?』
美桜の声が、怒りから、純粋な心配と恐怖に震える声へと変わった。
その声を聞いた瞬間、俺の脳裏に、全身の骨が砕け、細胞が焼き切れるようなあの激痛が蘇った。
一歩間違えれば、俺はこの世から完全に消滅していた。
もし俺が死んでいたら、この電話に出ることはなく、美桜と母さんは一生消えない絶望を抱えることになっていたのだ。
……俺は、大きく息を吸い込み、青空の広がる窓の外を見つめながら、できる限り優しく、穏やかな声を作った。
「痛くなんかねえよ。お兄ちゃんは頑丈だからな。ジャージがちょっと破けちゃったくらいだ」
『……ほんとに?』
「ああ、本当だ。明日の朝には退院して、真っ直ぐ家に帰る。……ほんとごめんな、心配かけて」
俺が心からの謝罪を口にすると、電話の向こうで美桜が鼻をすする音が聞こえた。
『……ぜったい、明日帰ってくる?』
「あぁ、絶対だ。寄り道もしない」
『……じゃあ、許してあげる。でも、帰ってきたら罰として、私のお手製のハンバーグ、三人前は食べてもらうからね』
美桜の言葉に、俺の口元に自然と笑みがこぼれた。
難病を患っていた美桜が、台所に立って料理を作れるほどに回復している。
その事実が、どれだけ俺の心を救ってくれることか。
「お手製って、お前また台所に立ったのか?
まだ無理するなって言ってるだろ」
『もうすっかり元気だもん! 今はお兄ちゃんの方が病人なんだから、私が栄養満点のご飯作ってあげるの。
……だから、早く帰ってきてね。待ってるから』 「ああ。ソース、多めにしといてくれよ」
通話が切れ、ツー、ツーという無機質な音が鳴る。
俺はスマートフォンをゆっくりと耳から離し、その画面を見つめた。
(……ハンバーグ、か)
さっきまでの骨の髄まで軋むような痛みが、嘘のように引いていくのを感じた。
俺が戦う理由。俺が【強欲】を振るう理由。
それは、世界を救う英雄になるためでも、神や悪魔を倒すためでもない。
ただ、あの声が待つ場所に帰るため。
美桜が作ってくれるハンバーグを、母さんと一緒に笑って食べる、その当たり前の日常を守るためなんだ。
「……結城くん」
一部始終を黙って見ていたギルマスが、どこか優しい目をして俺に声をかけた。
「君の強さの根源が、少し分かった気がするよ」
「……茶化さないでくださいよ」
俺は少し照れ隠しにそっぽを向き、スマートフォンをジャージのポケットに突っ込んだ。
「退院は明日の朝でしたよね。
……それまで、死んだように寝てますから、誰も入れないでくださいよ。
妹にこれ以上心配かけたら、それこそ悪魔より恐ろしい雷が落ちますからね」
俺はベッドに仰向けに倒れ込み、目を閉じた。
窓の外から差し込む日差しが、白い病室を淡く照らしている。
帰るべき場所がある、待ってくれている家族がいる。
その事実だけで、俺の魂の奥底で燃える黄金色の炎は、どんな神の奇跡よりも温かく、力強く燃え続けることができるのだ。
俺は微かな笑みを浮かべたまま、久しぶりの深く静かな眠りへと落ちていった。
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