病室の攻防と帰る場所1
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
無機質な心電図の電子音が、静まり返った白い病室に等間隔で響いている。
阿蘇での死闘から数日が経過していた。
京都ギルド本部の高層階に設けられた、最高レベルの防壁と結界が張られた特別隔離病棟。
窓の外には抜けるような青空が広がっているが、今の俺にはそれを優雅に眺める余裕など微塵もなかった。
俺は全身をミイラのように包帯で巻かれ、無数の点滴チューブに繋がれたまま、ベッドの上でただ静かに天井を睨みつけていた。
(……痛ぇな、おい)
息をするたびに、肺の奥で無数の針が暴れ回っているような鈍痛が走る。
エク子の残滓が強制解放した美徳スキル【慈善】。
その代償は、俺の肉体を文字通り崩壊の淵まで追い込んでいた。
『当然じゃ! 全く、主はどこまで大馬鹿者なんじゃ!』
脳内で、ひどく不機嫌そうなグリ子の声が響いた。
普段は強気な【強欲】の化身である彼女だが、今の声には明らかな疲労と、どこか怯えのようなものが混じっている。
『あのような、反吐が出るほど純粋で眩い光を魂の底から引っ張り出しおって……!
わらわの美しき強欲が、あやうく浄化されて消し飛ぶところじゃったわ!
次にあんな無茶をしたら、敵に殺される前にわらわが主の魂を食い破ってやるからな!』
「……悪かったよ。でも、あれがなきゃ今頃俺たち、揃って悪魔の胃袋の中で仲良く消化されてたぞ」
『マスター。グリ子ちゃんの言う通り、今回の行動は極めて非合理的であり、生存確率を著しく無視した暴挙です』
今度はトラ子が、心配そうな声で被せてきた。
『マスターの魂は第四階位に到達していたとはいえ、神の権能を直接受け止める器としては完全に容量不足でした。
全身の細胞の60パーセントが一度自壊し、持ち前の生命力でなんとか強引に細胞を繋ぎ止めている状態です。
……もし、エク子先輩の残滓による出力制限がなければ、マスターは間違いなく塵となっていました』
「……分かってる。エク子には、また借りができちまったな」
俺は心臓の奥底、今はもう完全に沈黙してしまった小さな温もりがあった場所に意識を向けた。
あいつが遺してくれた反逆の鍵。俺はそれに救われた。
だが、いつまでも誰かの自己犠牲の上に胡座をかいているわけにはいかない。
次に敵が立ちはだかった時は、俺自身の魂の格(階位)をさらに引き上げ、この理不尽な世界を真正面からねじ伏せてやる。
「……よし。痛いのは生きてる証拠だ。いつまでも寝てられるかよ」
俺はベッドの上でゆっくりと身を起こした。
ミシミシと全身の骨が軋み、激痛が脳天を突き抜けるが、奥歯を噛み締めて耐える。
そして、腕に刺さっていた何本もの点滴の針を、無造作にブチブチと引き抜いた。
♦︎
――ピロロロロッ!! ピロロロロッ!!
生命維持装置の異常を感知したけたたましいアラート音が、病室に鳴り響く。
「なっ!? 結城さん、何をしているんですか!!」
バンッ! と勢いよく病室のドアが開き、血相を変えた白衣の担当医が、数人の看護師を引き連れて飛び込んできた。
その後ろからは、騒ぎを聞きつけたギルマスが慌てた様子で顔を出している。
「何って、退院の準備ですよ」
「馬鹿なことを言わないでください! あなたの身体はまだ細胞レベルで崩壊しかかっているんですよ! 絶対安静です!」
「俺の身体なら、俺が一番よく分かってますよ。ほら」
俺は身体の傷を医師に見せつけた。
「な……っ!? バカな、あんな状態から、数日で傷口が完全に塞がっているなんて……」
医師が、あり得ないものを見るように目をひん剥いた。
細胞レベルのダメージと魂の疲労は残っているが、少なくとも歩いて帰る分には問題ない。
「ほら、歩ける。……ずっとこんな真っ白な部屋で寝かされてたら、治るもんも治らなくなっちまう」
俺はベッドから降り、冷たい床に裸足で立った。少しふらついたが、すぐに両足でしっかりと体重を支える。
「せ、先生! この人の回復力、人間のそれじゃありません……!」
パニックになりかけた医療スタッフたちを制するように、ギルマスが前に出た。
「……先生、申し訳ない。ここは私に任せてくれないか」
医師は何度か俺とマスターを交互に見比べた後、信じられないというように首を振りながら、看護師たちを連れて病室を後にした。
バタン、とドアが閉まると、片桐マスターは頭を抱えるようにして深くため息をついた。
「結城くん……頼むからベッドに戻ってくれ。君は今、自分がどういう立場にいるのか分かっているのか?」
「……立場?」
俺は鼻で嗤い、無造作に置かれていたドドンキのレジ袋の中から、着替えのジャージ(予備)を取り出しながら言った。
「阿蘇のスタンピードをたった一人で鎮圧し、特級ダンジョンのボスである悪魔公爵を粉砕した。
君のその規格外の力は、もはや日本のギルド連盟はおろか、世界中の国家機関が注視しているんだ。
君は今や、人類の希望であり、同時に最大の『抑止力』なんだぞ」
「マスター。俺は人類の希望になるつもりも、国の便利な道具になるつもりもありませんよ」
「だが、世界がそれを許さない! メディアはすでに『謎の英雄』の正体を血眼になって探している。
君がここから一歩でも外に出れば、群がる有象無象の対応で君の平穏は完全に崩れ去るんだぞ!」
「だったら、そいつらごと俺の力で黙らせるだけですよ」
俺がジャージに袖を通し、鋭い視線を向けると、ギルマスは息を呑んで後ずさった。
俺の心臓の奥で、【強欲】のオーラが微かに、しかし確かな圧力を持って漏れ出していた。
「ギルマス、俺は過去リストラされたただの元協会事務員です。
たまたま理不尽をぶっ壊す力を拾ったから、俺の周りの理不尽をぶっ飛ばしてるだけだ。
……俺はヒーローじゃない。
俺の帰る場所は、こんな息苦しいVIPルームなんかじゃなく、いつものボロアパートなんですよ」
俺の言葉に、ギルマスはしばらく言葉を失い――やがて、深く、長くため息をついた。
「……ハァ。君という男は……本当に、まったく変わらないな」
「変わってたら、あんなトカゲ野郎に真正面から殴りかかったりしませんよ」
「……分かった。上層部や政府の連中には、俺からうまく説明しておく。
君の身元が割れないよう、ギルドの総力を挙げて情報統制も敷こう。……だから」
ギルマスは、一人の人間としての真摯な目を俺に向けた。
「せめて、明日の朝まではここで安静にしていてくれ。
退院の手続きも、マスコミの目を誤魔化す裏口の手配も、それからじゃないと間に合わない。
……これは、君を厄介事に巻き込んでしまった俺からの、個人的な頼みだ」
そこまで言われてしまえば、無碍に振り切るわけにもいかない。
俺は再びベッドの端にドカッと腰を下ろした。
「……仕方ないですね。明日の朝までですよ。
それ以上は一秒たりとも延長しませんからね」
「ああ、恩に着る。……しかし、君のその異常な回復力と強情さには、本当に呆れるよ」
ギルマスが安堵の表情を浮かべた、その時だった。
――♪〜〜〜!
部屋の隅に置かれていたサイドテーブルから、ひどく間の抜けた、初期設定のままの安っぽい着信音が鳴り響いた。
俺のスマートフォンだ。
あの激戦の中でよく無事だったなと思ったが、そういえば戦闘に入る直前、ドドンキの袋に放り込んでいたのを思い出した。
画面を見ると、『母さん』という文字が表示されていた。
俺は少し顔を引き攣らせた。ギルマスにはあんなに強気に出たものの、この相手は悪魔公爵よりもある意味タチが悪い。
俺は一つ咳払いをして、通話ボタンを押した。




