嫉妬する悪魔
俺は全身からオーラを爆発的に立ち昇らせ、悪魔公爵が展開した極大の魔法陣を真っ直ぐに見据えた。
どんな理不尽な攻撃が来ようと、俺の右拳で、真正面から粉砕してやる。そう確信し、踏み込もうとした瞬間だった。
「……フハッ。真正面からぶっ壊す、か」
上空のヴァレフォールは、幾重にも重なる赤黒い魔法陣を背負ったまま、酷薄な笑みを浮かべた。
「あの脆弱な泥人形と同じ次元で我を測るなよ、人間。あんな三流の魔法で、貴様が殺せるとは思っていない」
「あ?」
次の瞬間、ヴァレフォールは展開した魔法陣から放たれるはずだった極大の泥を自らの体内へと猛烈な勢いで逆流させたのだ。
ズズズズズッ!! と、悪魔公爵の巨体がドス黒い瘴気を吸い込み、限界まで膨張していく。
「【嫉妬】の真髄とは、他者の持つものを妬み、欲し、己のものとすること。
……あの無能な前任者は、他者の魔力を奪い、絡め取り、操ることしかできなかった。
己自身の『器』が、あまりにも小さく、脆かったからだ」
ヴァレフォールの四つの瞳が、ギラギラとした純粋な悪意と、底知れぬ『飢え』の色に染まる。
「だが、公爵たる我が器は、底なしだ。貴様のその異常なまでの物理的強さ……その規格外の『ステータス』を、我はひたすらに妬み、喰らおう」
「……なんだと?」
「【大罪権能:能力嫉妬】」
ヴァレフォールがその言葉を紡いだ瞬間。 彼の全身から、俺の放っているオーラと全く同じ性質の、しかしドス黒く濁った『嫉妬のオーラ』が爆発的に噴き上がった。
『マスター、警戒してください!』
脳内で、かつてないほど切羽詰まったトラ子の声が響いた。
『敵個体のステータスが異常な速度で跳ね上がっています!
これは……マスターの現在の規格外数値を完全にコピーし、悪魔の『基礎ステータス』にそのまま上乗せしています!』
「テメェ……!」
俺は舌打ちと同時に、大地を爆発させて空中のヴァレフォールへと肉薄した。
迷っている暇はない。
バフが完全に乗り切る前に、その顔面を跡形もなく吹き飛ばす。
先ほど飛行魔獣の群れを全滅させたのと同じ、いや、それ以上の威力を込めた渾身の右ストレート。
――ガシィィィィィィィッ!!!!
鼓膜を破るほどの衝撃音が、阿蘇の上空で炸裂した。
だが、空気を叩き潰すようなその音は、俺の拳がヴァレフォールの顔面を捉えた音ではなかった。
「……なっ」
俺の右拳は、ヴァレフォールの黒い鱗に覆われた掌によって、ピタリと、完全に受け止められていた。
衝撃波が俺たちの周囲の空間をひび割れさせるが、悪魔公爵の巨体は、空中でただの1ミリたりとも後退していない。
魔力障壁じゃない、魔法の盾でもない。
俺の突進を、ヤツは純粋な『腕力』だけで相殺してのけたのだ。
「遅いな。そして、ひどく軽いぞ。……人間の矮小な力など、この程度か」
「クソッ――!」
俺が拳を引き戻そうとした、その時だった。
ヴァレフォールの口元が三日月のようにつり上がり、俺の視界からヤツの姿がフッと掻き消えた。
(見え……な、い!?)
俺の動体視力すらも上回る速度。
直後、俺の腹部に凄絶な衝撃が走った。
――ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!
「ガ、ハッ……!?」
俺の口から、酸素と共に大量の血の塊が吐き出された。
特売ジャージの腹部が弾け飛び、俺の身体はまるで撃ち落とされた弾丸のように、地上へと真っ逆さまに墜落していく。
地面に激突し、さらにその後ろにあった小高い岩山を三つ連続でぶち抜き、ようやく俺の身体は止まった。
「ゴホッ、ゲホッ……! ア、ァァ……ッ」
肺が潰れたかのような激痛、全身の骨が軋む音。
どれだけ殴られても傷一つ付かなかった俺の肉体が、確かな悲鳴を上げていた。
「……あ、あ、ああ……」
遠くの防衛線で、かすかな希望を抱きかけていた冒険者たちが、再び絶望のどん底へと叩き落とされ、顔を蒼白にしている。
「ハハハハハハッ! 素晴らしい! これが貴様が見ていた景色か!
力で他者を蹂躙し、すべてを粉砕する全能感! 悪魔の力にこの暴力が乗れば、もはや地上のすべてはただの紙屑と同義よ!!」
上空から、ヴァレフォールが狂喜の笑い声を上げながらゆっくりと降下してくる。
俺のステータスを完全にコピーし、そこに公爵級悪魔の基礎ステータスが乗っているのだ。単純な数値の暴力において、今のヤツは完全に俺を上回っている。
「ゴホッ……ふざけ、んな……泥棒野郎が……!」
俺は瓦礫の中からフラフラと立ち上がり、左手で血を拭った。
ならば、やることは一つだ。
ヤツがそのバフを身に纏っているなら、あの京都の時のように、権能の『概念』ごと強引に剥がし取って握り潰せばいい。
「【存在強奪:概念剥離】……ッ!!」
俺は黄金色の光を左手に集束させ、迫り来るヴァレフォールの胸元――嫉妬のオーラの中枢めがけて、渾身の力で手を突き出した。
だが。
『対象の概念剥離に失敗しました!』
俺の左手は、ヴァレフォールのオーラを掴むことなく、ただの空気をスカッと掴んだだけだった。
「……は?」
『対象のステータス向上は、マスターや他者に付与された外部からの『呪縛』ではなく、自身の権能による「完全な自己バフ」として内部処理されています!
物理的に実体化して引き剥がすための『概念的な繋がり』が、表層に存在しません!』
「な……っ!」
俺はハッと目を見開いた。
天道茜を縛っていた呪いは、エンヴィーという「外部」から押し付けられた泥だったから、強引に剥がすことができた。
だが、今のヴァレフォールは違う。
ヤツ自身が悪魔の魂で嫉妬の権能を完全に消化し、自分自身の血肉として完全に同化させているのだ。
表に出ない内部バフ。それはつまり、俺の『概念剥離』の対象にはならないということを意味していた。
「……ほう。何かをしようとしたようだが、不発か?
貴様のその能力、外部の干渉には滅法強いようだが……我が内側で燃え盛る嫉妬の炎までは、どうすることもできまい」
ヴァレフォールが、残酷な笑みを浮かべて俺の目の前へと着地した。 ズズンッ、と大地が震える。
「さあ、絶望しろ。貴様が誇っていた絶対の力が、そっくりそのまま己の身を滅ぼす刃となるのだ。……これ以上の恐怖と屈辱はなかろう?」
「……クソが」
ステータスで負け、最大の対抗手段である概念剥離も通じない。
俺は血が滲むほど奥歯を噛み締め、黄金色のオーラを放つ両拳を構え直した。
「足掻くか。良いだろう、その絶望の顔を泥に沈め、ゆっくりと八つ裂きにしてくれる」
次の瞬間、ヴァレフォールの巨体が再びブレた。
音速を超えた死闘。いや、一方的な蹂躙が幕を開けた。
ドゴォォォォンッ!! ガガガガガガガッ!!!
俺のガードを容易く弾き飛ばす連撃は防ぐのが精一杯で、反撃の隙など1ミリも与えられない。
俺の身体は阿蘇の大地をバウンドしながら削り飛ばされ、そのたびに血飛沫が舞い散った。
かつてない、圧倒的なピンチ。
理不尽をぶっ壊すはずの俺の【強欲】が、悪魔の【嫉妬】という底なしの理不尽の前に、完全に封じ込められていた。




