悪魔との対峙
九州、阿蘇山一帯。
空はすでに、この世のものとは思えない赤黒い瘴気に覆い尽くされていた。
けたたましい避難サイレンが鳴り響き、住民を誘導するアナウンスが虚しくこだまする中、特級ダンジョン『巨獣の奈落』の巨大なゲートからは、決壊したダムのように無数の魔獣が地上へと溢れ出していた。
「撃てェッ!! 魔法陣、絶対に通すな! ここを突破されたら市街地が火の海になるぞ!」
ゲートの前に急造された防衛線。
九州ギルド連盟の留守を預かっていた防衛隊の隊長が、血を吐くような声で陣頭指揮を執っていた。
前衛の重装騎士たちが巨大な盾を並べて防壁を作り、後衛の魔術師部隊が一斉に炎や氷の極大魔法を放つ。
さらに、自衛隊の支援による無数の重火器が、押し寄せる巨獣の群れに火線を浴びせ続けていた。
だが。
「だ、駄目です! 魔獣の数が多すぎます! 第一防衛線の結界、魔力残量残り30パーセント……ッ!」
オペレーターの悲鳴が上がる。
倒しても倒しても、地下からは次々と新たな魔獣が湧き出してくる。
しかも、その一体一体が通常の個体よりも異様に凶暴化しており、傷を負うことすら厭わずに防衛線へと特攻を繰り返していた。
「くそっ……! 会議でトップ層が出払っているこんな時に、なぜ過去最大級のスタンピードが……!」
隊長が絶望に歯噛みした、その時だった。
――ズズズズズズッ……!!
ダンジョンのゲートの奥から、周囲の空間そのものを軋ませるほどの、圧倒的で、吐き気を催すほど濃密な魔力が立ち上った。
空を覆っていた赤黒い瘴気が一箇所に渦を巻き、そこから『それ』はゆっくりと姿を現した。
「嘘だろ……あんなバケモノ、どうやって……」
防衛隊の冒険者たちが、武器を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
上空に浮かび上がったのは、漆黒の双翼を広げ、四つの瞳を爛々と輝かせる巨大な悪魔――悪魔公爵ヴァレフォール。
その全身からは、ドス黒い『嫉妬』の泥が瘴気となってボタボタと地上へ降り注いでいる。
「ひれ伏せ、脆弱なる人間どもよ。
我は悪魔公爵ヴァレフォール。今日この日、貴様らの平穏は終わりを告げる」
ヴァレフォールの声は、雷鳴のように阿蘇の山々に響き渡った。
彼は上空から虫ケラを見下ろすような傲慢な瞳で防衛線を見据え、ゆっくりと右手を掲げた。
「貴様らの持つその惨めな希望も、ささやかな魔力も。すべて我が『嫉妬』の泥の底へと沈めてやろう」
彼の手から放たれた黒い泥の雨が、防衛隊の張っていた強固な結界の上に降り注ぐ。
ジュワッ……! という不気味な音と共に、物理攻撃や魔法も通さないはずの結界が、まるで熱湯をかけられた飴細工のようにドロドロと溶け落ちていった。
「け、結界が……吸収されている!?」
「魔法陣もだ! 俺たちの魔力が……あの黒い雨に吸い取られていく!」
『嫉妬』の大罪権能。
他者の力や才能を理不尽に略奪し、無力化するその呪いは、悪魔公爵の膨大な魔力と結びつくことで、広域を覆い尽くす最悪の汚染兵器へと変貌していた。
魔力を奪われた冒険者たちが次々と倒れ伏し、防衛線が完全に崩壊する。
その隙を突いて、数千の魔獣たちが狂喜の咆哮を上げ、無防備となった市街地へ向けて一斉に雪崩れ込もうとした。
「……これまでか」
隊長が、迫り来る魔獣の巨大な牙を前に、静かに目を閉じた。
誰もが死を覚悟し、九州の滅亡を確信した、その瞬間。
上空から、大気を引き裂くような異常な甲高い音が響き渡った。
ヴァレフォールが、そして倒れ伏していた冒険者たちが、弾かれたように空を見上げる。
赤い瘴気に覆われた雲の切れ間から。
まるで大気圏を突破してきた隕石のように、『何か』が、猛烈な速度で一直線に落下してきていた。
「なんだ、あれは……?」
ヴァレフォールが四つの目を細めた。
落ちてくるそれは、魔法の光でも、ミサイルでもない。
ただのジャージを着た一人の『人間』だった。
「――どけェェェェェッ!!!」
上空から降ってきた男の怒声が響いた直後。
ズドドォォォォォォォォォンッ!!!!!!
阿蘇の地響きすら上回る、破滅的な轟音が大地を揺らした。
男が着弾したのは、防衛線を突破しようとしていた数千の魔獣の群れの、ど真ん中だった。
男の足が地面に激突した瞬間に発生した『ただの物理的な衝撃波』が、台風の何倍もの威力を伴って円状に吹き荒れる。
巨大な魔獣たちが、まるで落ち葉のように空高く巻き上げられ、着弾点の中心にいた数百体は、衝撃の圧力だけで文字通り血肉の雨となって一瞬で蒸発した。
「な……っ!?」
「あ、あ、あああ……っ!?」
防衛隊の隊長たちが、あまりの光景に顎を外さんばかりに目をひん剥いている。
地面がすり鉢状に陥没し、もうもうと立ち込める土煙。
そのクレーターの中心から、男――結城誠が、首をコキキッと鳴らしながらゆっくりと立ち上がった。
「ふぅ……。いくらステータスを上げても、京都から空気を蹴って飛んでくるのは流石に足にくるな。靴の底が完全に焼け焦げちまった」
俺は、ボロボロになったスニーカーの残骸を蹴り捨て、周囲を埋め尽くす魔獣の群れ、そして上空で呆然とこちらを見下ろしている悪魔公爵をぐるりと見渡した。
「き、貴様……何者だ? いかなる大魔術を使った!?」
ヴァレフォールが、警戒を露わにして高度を上げながら叫んだ。
悪魔の知覚を持ってしても、今の一撃から『魔力』の波長を一切感じ取れなかったからだ。
「魔術なんか使ってねえよ。ただの『着地』だからな」
俺はジャージの肩についた土埃を払いながら、忌々しげに上空の悪魔を睨みつけ、右拳を固く握りしめた。
天道さんの魂に消えない傷を残したあの『嫉妬』の呪い。
その残滓を纏って俺の前に現れたこの悪魔は、行き場を失っていた俺の怒りをぶつけるための、これ以上ない標的だった。
「夕飯までに帰るって約束してるんだ。……サクッと終わらせてやるから、そこを動くなよ」
俺の心臓の奥底で、怒りの炎が周囲の瘴気を焼き尽くすほどの熱量を持って爆発的に燃え上がった。
「ほざけ、人間風情が! 我は嫉妬を統べる悪魔公爵ヴァレフォールだ! その命ごと、我が泥の底へ――」
「テメェのくだらねえ自己紹介は、もう聞き飽きたんだよ」
――ダンッ!!!
俺が陥没した地面をさらに踏み砕いた瞬間、俺の姿は地上の冒険者たちの視界から完全に消失した。
次に俺が現れたのは、空高く浮遊していたヴァレフォールの、文字通り『目の前』だった。
「な……!?」
ヴァレフォールの四つの瞳が、驚愕に極限まで見開かれる。
俺は、驚きで硬直する悪魔の顔面めがけて、黄金色のオーラを纏った右の拳を、一切の容赦なく、全力で叩き込んだ。




