届かない声
――ズドォォォォォォォォォンッ!!!!
凄まじい衝撃波がホールの空気を吹き飛ばし、エンヴィーの精巧な泥人形は顔面から無惨に拉げ、木っ端微塵に吹き飛んだ。
分厚い大理石の壁を何枚もぶち抜き、ホテルの外の夜空へとその衝撃の余波が突き抜けていく。
だが、それはただのダミー。
エンヴィーの本体はすでに数キロ先へと逃亡し、その負け犬の遠吠えだけが京都の空に消えていった。
「逃げ足だけは一丁前だな、クソ野郎が……」
俺はギリッと奥歯を噛み締めながら、忌々しげに舌打ちをした。
嫉妬の本体を逃してしまったのは痛手だが、これ以上の追撃は不可能だ。それに、今は何よりも優先すべきことがある。
俺は振り返り、半壊した大宴会場の瓦礫の中で倒れている天道茜の元へと急ぎ足で歩み寄った。
彼女はずっとエンヴィーの泥の底という本当の地獄に囚われ続けていたのだ。
「……天道さん」
膝をつき、そっと彼女の細い肩を抱き起こす。
彼女の微弱だが確かな鼓動と、規則的な呼吸音がする。
息はある。俺の『概念剥離』によって、彼女の魂の根幹にまで根を張っていた嫉妬の呪縛は完全に断ち切られている。
抱き上げた彼女の身体は、俺の前に立って庇ってくれた時よりも、ひどく軽く、そして冷たくなっていた。
「天道さん。……目を覚ましてくれ。もう、大丈夫だから」
俺は、彼女の泥に汚れた頬にそっと触れ、優しく呼びかけた。
ピクリ、と。長い睫毛が震え、虚ろだった瞳がゆっくりと開かれる。
焦点の合わない瞳が宙を彷徨い、やがて至近距離で自分を覗き込んでいる俺の顔を捉える。
「……ま、こと……くん……?」
ひび割れた、掠れた声だった。
俺は安堵のあまり、泣きそうになるのを必死に堪えて、何度も大きく頷いた。
「ああ、俺だ。俺だよ、天道さん。……遅くなって、本当にごめん。
でも、もうアイツの呪いは解いた。天道さんはは自由だ」
天道さんは俺の声を聞いた瞬間、ビクッと大きく跳ねた。
瞳から光が消え、底知れぬ恐怖と自己嫌悪が溢れ出す。
「こ、来ないでッ!!」
鼓膜を裂くような悲鳴。俺の伸ばした手は、空中でピタリと硬直した。
「違うのッ! 私が、私が殺したの!! あの泥の中で……私の剣が、何十人も、何百人も……罪のない人たちを、切り裂いて……っ!!」
鼓膜を刺す絶望的な悲鳴。
彼女は自分の両手を必死にジャージの切れ端に擦り付け、皮膚が赤く剥けるほどに強く拭い続けている。
彼女の魂にこびりついた記憶は、俺ではどうすることもできない領域のものだった。
救護班が彼女を隔離病棟へと連れ去る間、俺はただ掌から血が滲むほど拳を握りしめ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
◆
場面は変わり、現実世界から隔離されたNULLの拠点。
果てしなく広がる暗黒の空間に、灰色の巨大な石柱が立ち並ぶ、神殿のような廃墟――その最深部。
ドス黒い泥の塊が這いずり回り、やがて燕尾服を着た男――エンヴィーの姿へと変わる。 彼は血反吐を吐きながら、漆黒のローブを目深に被った『ボス』が腰掛ける巨大な黒曜石の玉座へと向かって必死に手を伸ばした。
「ボス……ッ!!」
エンヴィーは這いつくばったまま、狂ったように報告を捲し立てた。
彼が語るのは、嫉妬の泥を破壊した、狂ったステータスの男の話だ。
「バケモノがいたんです! 私の泥の領域を概念ごと破壊しやがった……!」
エンヴィーが恐怖に顔を引き攣らせる中、ボスは冷徹な視線を泥の男へと向けた。
「知っている」
「え……?」
「我は視ていたからな。貴様が強襲したあの会場……『ある冒険者』の眼球を通じて、結城誠の動きをすべて観測させてもらった」
その言葉を聞いた瞬間、エンヴィーの全身の血の気が引いた。
会議に忍ばせていたスパイの視界をジャックし、リアルタイムで結城誠の異常性を覗き見ていたのだ。
「貴様は、期待外れだった」
ボスの声には、怒りすら含まれていない。
ただ、壊れた道具を捨てるような無関心があるだけだ。
「神の権能たる『嫉妬』を与えられながら、己の矮小なコンプレックスと美学に固執し、あまつさえ人間を人質に取るという下劣な真似までした挙句……ただの一人の人間に恐怖して背を向けた。それはもはや、大罪の器ではない」
「ま、待ってください! ボス! 私はまだやれます! 次こそは必ずあの男を、この泥で溶かして――」
「不要だ」
エンヴィーの身体を這い回っていた黒い泥が逆流し、彼に与えられていた【嫉妬】の大罪スキルが、魂の根幹から無理やり引き剥がされていく。
「い、いやだ……! 私から、これを奪わないでくれ! これがなくなれば、私はまた……、醜いだけの……誰からも見向きされない惨めな男に……ッ!!」
エンヴィーの肉体がボロボロと崩壊していく。
他者の才能を妬み、奪うことでしか自らの価値を証明できなかった男。
その根源たるスキルを奪われることは、彼にとって死以上の恐怖だった。
「声にならない声を上げろ。そして、己の無能さに絶望しながら消えるがいい」
「いやだ……! 私から、これを奪わないでくれ……ッ!!」
悲痛な叫びも虚しく、バチュンッという破裂音と共に、エンヴィーの肉体は塵となって消え去った。
ボスの手元には、ドス黒い光を放つ宝石のような結晶――『嫉妬の大罪スキル』のコアだけが浮遊している。
(怠惰に続き、嫉妬まで……結城誠か。
放置すれば我が悲願の障壁となるのは明白、あいつは、現行の『管理者』どもが我々を排除するために差し向けた手駒か?)
ボスは手元の嫉妬のコアを弄んだ。
(この強力な大罪のスキルを失うのは惜しい。だが、我はまだこの領域から動くことはできぬ。……さて、どうしたものか)
ボスの脳裏に、先ほどのエンヴィーの無様な最期と、天道茜という哀れな操り人形の姿が蘇る。
(そうか。……『人間』という不完全な器に力を与えるから、この様な結果になるのか。
人間は己の自我や感情、過去のトラウマ、下らないプライドに縛られ、権能の出力を著しく低下させる)
人間の心というノイズが、大罪の純粋な悪意を濁らせるのだ。
ならば、答えは一つ。
(人ならざる者に、このスキルを与えれば良いのだ)
「暴食。いるか?」
空間が歪み、異様な巨体が姿を現す。
NULLの幹部『暴食』。
「九州へ向かえ」
ボスは冷酷な声で命じた。
「九州の阿蘇山地下に広がる特級ダンジョン『巨獣の奈落』。
その最深部には、強大な魔力を持つ悪魔たちの軍勢を統べるユニークボス……『悪魔公爵』が君臨している」
悪魔。
それは魔物の中でも極めて高い知能と、人間に対する純粋な悪意を持つ種族。
その頂点に立つ公爵クラスであれば、大罪の力に自我を喰われることなく、完璧に同化して理不尽な災害として顕現するはずだ。
「その悪魔公爵に、この『嫉妬』のアイテムを投げてこい。
ヤツがそれを取り込めば、あとは勝手に嫉妬に狂い、九州全土、いや、日本全土を火の海に変えるだろう」
「……分かりました。その悪魔公爵、嫉妬というスパイスを加えて美味しくいただいてきましょう」
暴食は、抑揚のない落ち着いた声で静かに答えた。
「手段は問わん、対象にそのコアをねじ込めばそれで終わる」
「はい。……結城誠、その男の存在ごと、嫉妬に狂った悪魔公爵の餌として差し上げます」
暴食は丁寧な所作でコアを受け取ると、そのまま空間の闇へと沈んでいく。
「……結城誠。いかに規格外の力を持っていようと、貴様一人の手で世界すべてを救うことはできぬ。
悪魔に大罪が乗れば、いかに貴様でも無事では済むまい」
ボスのローブの奥で、狂信的な光がギラリと瞬いた。
「私は、偉大なるセプテム様復活のために、動かなければいけない。
……そのためには、旧き世界の秩序をすべて破壊し尽くす必要があるのだから」
玉座に座るボスの呟きは、誰に聞かれることもなく闇の底へと溶けていった。
世界を裏側から侵食する悪意は、いまだ止まることを知らない。
次なる大罪の刃が、九州の暗黒のダンジョンで、人間への純粋な憎悪と共に静かに目覚めようとしていた。




