存在剥離の真価
静まり返った崩壊した大宴会場に、エンヴィーの耳障りな高笑いが響き渡っていた。
「アハハハハハ! どうしたんだい、名もなきヒーロー気取りくん! さっきまでの威勢の良さはどこへ行ったんだ! 殴ってみろよ、僕を! 君のその馬鹿みたいな腕力でさァ!!」
エンヴィーが両手を広げ、隙だらけの無防備な姿を晒して挑発してくる。
だが、俺は右拳をギリッと強く握りしめたまま、その場から一歩も動くことができなかった。
彼の足元から広がるドス黒い泥の海。
それは、床に倒れ伏している天道茜の身体を縛り、周囲で気絶している何百人ものエリート冒険者たちやギルドマスターたちと、血管のような管でびっしりと繋がっている。
俺がエンヴィーにダメージを与えれば与えるほど、そのダメージは泥の管を通じて人質たちへと変換・転嫁され、最終的に彼らの生命力を吸い上げてエンヴィーを回復させてしまう。
俺の拳は、一撃でビルを粉砕する威力がある。
そんなもので彼を殴り飛ばせば、最優先で命を吸い上げられるように設定された茜さんは、一瞬で干からびて死んでしまうだろう。
「……クソが。他人の命を盾にしないと戦えねえのか、テメェは」
「ははっ!褒め言葉として受け取っておくよ! 弱者の命を搾取して何が悪い?
才能ある連中が築き上げたものを、横から全部奪い取って自分のものにする! それこそが僕の『嫉妬』の美学であり、絶対の生存戦略なんだからねェ!」
エンヴィーはステッキをクルクルと回し、勝ち誇ったように俺を見下ろした。
物理攻撃も、魔法も通じない。仮にダメージを与えても人質が死ぬだけ。
盤面は完全にエンヴィーが支配し、俺は完全に詰まされたかのように見えた。
――だが。 俺の脳内では、そんな絶望的な状況を鼻で嗤う、極めて傲慢な声が響いていた。
『クックック……アーッハッハッハ!! 傑作じゃ! 腹がよじれるわ!』
グリ子だった。彼女はまるでコメディ映画でも見ているかのように、腹を抱えて大爆笑していた。
『おいおい宿主よ、なぜ貴様まで神妙な顔をしておるのだ? この三流手品師は、己の矮小な泥遊びを「絶対の戦略」などとほざいておるのだぞ?』
(笑い事じゃねえ。茜さんが人質に取られてるんだぞ?)
『馬鹿め。それが貧乏人の発想だと言うのだ。……天秤の片方に人質を乗せられ、もう片方に敵の命を乗せられた時、なぜ貴様は「どちらかを選ばなければならない」などと錯覚しておる?』
グリ子の声が、スッと冷たく、そして底なしの欲望を孕んだ色に変わる。
『貴様の魂は、第四階位に至った【強欲】じゃぞ? 命が惜しいなら、敵の命も、人質の命も、そのふざけた泥の天秤ごと……すべて丸ごと『強奪』ってしまえばよかろうが』
「……ッ!」
俺は、ハッと目を見開いた。
そうだ。俺は何を難しく考えていたんだ。
敵を殴ってダメージを与えるから、その反動が人質に行く。
ならば、ダメージが行く前に、この男と人質を繋いでいる『見えない泥の管』そのものを、俺の力で直接へし折ってしまえばいいのだ。
『トラ子、サポートを頼む。この部屋中に張り巡らされた泥の『根源』の位置を割り出せ』
『了解しました、マスター。……対象の魔力循環を解析。
エンヴィーの足元、地下1メートルの位置に、全人質と繋がる領域の『中枢概念』を特定しました』
脳内でトラ子の冷徹な報告を聞き終えると同時に、俺は握りしめていた右拳のオーラをスッと消し、深く、静かに息を吐いた。
「おやァ? どうしたんだい? ついに諦めて、僕に命乞いでもする気になったのか――」
「テメェみたいなセコい泥棒に、これ以上付き合ってやる義理はねえよ」
俺はエンヴィーの嘲笑を無視して真っ直ぐに歩き出し、男の目の前、わずか一歩の距離で立ち止まった。
「な、何を……」
エンヴィーが怪訝な顔をした瞬間。
俺は右の拳を高く振り上げ、エンヴィーを殴るのではなく――彼と人質たちを繋ぐ泥の海、その足元の床面めがけて、渾身の力で拳を叩きつけた。
「【存在強奪:概念剥離】ッ!!」
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
俺の拳が床を粉砕した瞬間、ただの物理的破壊ではない、黄金色の強烈な閃光が泥の海全体に走った。
俺が殴りつけたのは、床ではない。
エンヴィーと人質たちを繋ぎ、命を搾取するための『支配の概念』そのものだ。
「な、ななななっ!?」
エンヴィーが絶叫する。
俺の拳が突き刺さった泥の底から、ドクドクと脈打つ醜悪な『黒い心臓』のような巨大な塊が、物理的な物体として強引に引きずり出された。
これこそが、この大罪領域の要。
人質たちの命を繋ぐネットワークの中枢だ。
「そんな、僕の領域の核が!? あり得ない、概念そのものを掴むなんて……ッ!」
「これで人質はゼロだ」
パキィィィィンッ!!!
俺がその『黒い心臓』を容赦なく握り潰した瞬間、ガラスが砕け散るような轟音と共に、会場を覆い尽くしていたドス黒い泥の海が一瞬にして干からび、灰となって消滅した。
茜さんを縛り付けていた泥も、エリート冒険者たちを繋いでいた管も、すべてが跡形もなく消え去る。
「あ……」
「う、うぅ……」
呪縛から解放された冒険者たちやギルドマスターたちが、次々と苦しげな呻き声を上げて身じろぎを始める。
茜さんも、静かに寝息を立てていた。その白い肌を這い回っていた黒い脈は完全に消え去り、安らかな表情へと戻っている。
「あ、あ、あ……嘘だろ。僕の、僕の無敵の領域が……こんな、こんな力技で……!?」
すべてを失い、ただの燕尾服を着た不気味な男へと成り下がったエンヴィーが、ガクガクと膝を震わせて立ち尽くしていた。
「さあ、邪魔者のいない一対一だ」
俺は首をコキキッと鳴らし、黄金色のオーラを再び右拳に集束させながら、絶望に顔を歪めるエンヴィーへとゆっくりと腕を引き絞った。
「テメェには、茜さんを傷つけた分のツケをきっちり払ってもらうぜ」
「ヒィッ……! ま、待って! 悪かった、僕が間違って――」
命乞いの言葉など、最後まで聞く耳は持たなかった。
俺は踏み込み、エンヴィーの顔面めがけて、一切の容赦なく、持てる力のすべてを叩き込んだ。
――ズドォォォォォォォォォンッ!!!!
凄まじい衝撃波がホールの空気を吹き飛ばし、エンヴィーの身体は顔面から無惨に拉げ、木っ端微塵に吹き飛んだ。
血肉すら残らない、文字通りの『消滅』。
分厚い大理石の壁を何枚もぶち抜き、ホテルの外の夜空へとその衝撃の余波が突き抜けていく。
「……終わったか」
俺は立ち上る白煙を払いながら、深く息を吐き出した。
だが。
『マスター、警戒を解かないでください!』
脳内で、トラ子の鋭い警告が響いた。
俺が眉を顰め、壁に空いた巨大な大穴の先――エンヴィーが吹き飛んでいった軌跡を見据えた、その時だった。
ボチャッ……、ドロドロドロッ……。
粉砕され、周囲の瓦礫に飛び散っていたエンヴィーの『肉片』が、突如としてドス黒い泥へと変質し、ドロドロと溶け落ちたのだ。
血の一滴すら残っていない。
俺が渾身の一撃で粉砕したはずのソレは、ただの精巧な『泥の人形』だった。
『――アハハハハハ! 痛い、痛いじゃないか! 本当に野蛮なバケモノだねェ!』
ホテルの外、夜の闇の中から、エンヴィーの歪んだ声だけが風に乗って響いてきた。
「チッ……! 身代わりか!」
『覚えておけよ、名もなきゴミ虫くん! 今日のところは僕のコレクションの調整不足だったというだけだ! 次に会う時は、その規格外の力ごと、絶対に僕が奪い取ってやるからねェ!!』
負け犬の遠吠えが、夜の京都の空に消えていく。
「逃げ足だけは一丁前だな、クソ野郎が……」
俺はギリッと奥歯を噛み締めながら、忌々しげに舌打ちをした。
嫉妬の本体を逃してしまったのは痛手だが、これ以上の追撃は不可能だ。それに、今は何よりも優先すべきことがある。
俺は振り返り、瓦礫の中で倒れている天道茜の元へと歩み寄った。
数年間、ずっと泥の底に囚われていた彼女。
息はある。呪いも完全に断ち切った。
「……天道さん」
俺がそっと彼女の身体を抱き起した時、背後で「う、うぅん……」と、他のエリート冒険者たちやギルドマスターたちが、次々と意識を取り戻し、身を起こし始めていた。
先ほどの一撃でホテルの最上階は半壊し、俺の異常な力の一端を、彼らは間違いなく目撃してしまったはずだ。
嵐は過ぎ去ったが、ここからまた別の面倒な『嵐』が吹き荒れそうな予感に、俺は思わず重いため息を漏らしたのだった。




