消しきれない呪い
ドンッ!! と、足元のコンクリートを粉砕して、俺は前傾姿勢のまま爆発的な速度で駆け出した。
「ッ!!」
迎撃に出た天道茜が、白銀の剣にドス黒い漆黒の炎を纏わせ、真っ向から俺の脳天めがけて振り下ろしてくる。
超音速の斬撃。しかし、俺はその凶刃を避けることなく、ギリギリまで引きつけてから左の手刀で峰を強く叩き落とした。
――キィィィンッ!
軌道が逸れ、剣先が床を深く抉る。
茜の体勢が大きく崩れた。俺はがら空きになった彼女の胸元――その心臓付近で最も濃密に渦巻いている『黒い泥の核』を正確に見据えた。
彼女を殺してはいけない。傷つけてもいけない。
俺のステータスでまともに殴れば、彼女の細い身体など一瞬で血肉の雨に変わってしまう。これは、巨大なハンマーを使って、細胞の1ミリを切り取るような精密かつ無茶苦茶な外科手術だ。
(頼む、上手くいってくれ……ッ!)
俺は左手に意識を集束させ、彼女の胸元の虚空めがけて、威力を極限まで制御した拳を放った。
「【存在強奪:概念剥離】ッ!!」
パキィィィィンッ……!!!
俺の拳が『泥の概念』そのものを捉え、物理的な衝撃として打ち砕いた瞬間、ガラスが砕け散るような甲高い音が空間に響き渡った。
茜の全身を縛り付けていた漆黒の炎と、有刺鉄線のように絡みついていた黒い脈の大部分が、粉々に砕けて空中に散る。
「ア、ァ……ッ」
茜の喉から、苦しげな吐息が漏れた。
これで呪いは解けたはずだ……そう確信したその時だった。
『マスター! 駄目です、引き剥がしきれていません! 対象の呪縛深度が想定以上に深く、魂の根幹にまで泥が癒着しています!』
トラ子の切羽詰まった声が脳内に響く。
「なっ……!?」
俺が目を見開いた直後、茜の胸元に残っていた僅かな泥の残滓が、まるで意思を持つ寄生虫のように、再びズブズブと彼女の体内に深く潜り込んでいったのだ。
これ以上無理に引き剥がそうとすれば、呪いだけでなく、天道茜という人間の『魂』そのものを引き裂いてしまう。
♦︎
「あ、ぅ……まこ、と……」
「茜さんッ!」
完全に正気を取り戻すには至らず、しかし呪いの大部分を破壊されたことで一時的に意識が途切れたのだろう。
茜の瞳がふっと閉じられ、その身体が糸の切れた操り人形のようにぐらりと傾いた。
俺は慌てて手を伸ばし、崩れ落ちる彼女の細い身体を抱きとめた。
泥まみれになり、ボロボロに傷ついたその身体は、あの日よりもずっと軽く、ひどく冷たかった。
「……くそッ」
俺は茜をそっと床に寝かせると、ギリッと血が滲むほど強く奥歯を噛み締めた。
助けられなかった。
あれだけ無茶苦茶な真似をして、強欲のスキルをフル稼働させたというのに、あと一歩のところでこの忌まわしい泥は彼女を解放してくれなかったのだ。
「アハハハハ! 無駄だ無駄だ! 言っただろう、僕の『嫉妬』は骨の髄まで染み込んでいる! そんな力任せの真似で、僕の最高傑作が奪えるものかァ!」
瓦礫の向こうで、顔を醜く歪ませたエンヴィーが狂ったように嘲笑う。
俺はゆっくりと立ち上がり、視線を向ける。
「テメェは……絶対に許さねえ」
ダンッ!!
次の瞬間、俺は瞬きすら置き去りにする速度で距離を詰め、エンヴィーの目の前へと肉薄していた。
「ひっ――」
男の顔が恐怖に引き攣る。
だが、もはや手加減などしてやる余裕は俺の中にはなかった。
――ドゴォォォォォンッ!!!!
俺の右ストレートが、エンヴィーの腹部を情け容赦なくぶち抜いた。
衝撃波がホールの空気を円状に吹き飛ばし、男の身体は「く字」に折れ曲がったまま、砲弾のような速度で後方へと消し飛んだ。
分厚い大理石の壁を三枚連続でぶち抜き、ようやく瓦礫の山に埋もれて停止する。
完全に致命傷だ。内臓は破裂し、全身の骨が粉々に砕け散ったはずの一撃。
「……終わりだ、三流手品師」
俺が低く吐き捨て、天道さんを抱え上げようと振り返った、その時だった。
「グ、フフッ……アハハハハハハッ!!」
土煙の向こうから、あり得ないはずの笑い声が響いた。
瓦礫を跳ね除け、エンヴィーがゆっくりと立ち上がってきたのだ。
彼の腹部には巨大な風穴が開いていたが、そこからドス黒い泥がシュルシュルと溢れ出し、一瞬にして砕けた骨も肉も完全に修復してしまった。
「な……?」
「痛いじゃないか、本当に。……でも、僕には『他人の命』という最高のストックがいくらでもあるからねェ」
エンヴィーは首をコキキッと鳴らしながら、歪んだ笑みを浮かべて両手を大きく広げた。 彼がステッキを振るうと、会場中を覆い尽くしている黒い泥沼が、不気味な脈動を打ち始めた。
泥の海に沈み、魔力を吸われ続けている冒険者たち。
彼らの身体から伸びた見えない泥の管が、すべてエンヴィーの足元へと繋がっているのが見えた。
「よく考えなよォ、名もなきゴミ虫くん。この場に転がっているエリートどもは、全員僕の泥と繋がった『人質』だ。
僕がダメージを受ければ、その分だけ彼らの生命力を吸い上げて回復する。
僕を殺したければ、この日本のトップ冒険者たち数百人を、君が全滅させるしかないねェ」
「テメェ……!」
俺が再び拳を握りしめようとした瞬間、エンヴィーの足元の泥がさらに形を変え、倒れている天道茜の身体をも黒い触手のように包み込み始めた。
「それに……そこの茜は、君の『大切なお知り合い』みたいじゃないか。……つまり、どういうことか分かるよねェ?」
エンヴィーが、醜悪な笑みを浮かべて俺を指差した。
「君がこれ以上僕を殴れば、一番最初に生命力を吸い尽くされて死ぬのは、君の大切な天道茜だ。
さあ、どうする? 彼女ごと僕を殺すかい?」
ピタリ、と。
俺の足が、床に縫い付けられたように完全に停止した。
「アハハハハハ! 素晴らしい! その絶望に満ちた顔、実に妬ましくて最高だァ!」
高笑いするエンヴィー。
床に倒れ、泥に命を吸われようとしている茜。
そして、周囲で呻き声を上げる数百人の冒険者たち。
俺の拳には、圧倒的な力がある。
だが、その力でエンヴィーを殴れば殴るほど、天道さんの命が削られていく。
「く……そ、が……ッ」
俺は握りしめた拳を震わせ、泥の海の真ん中で完全に攻めあぐねていた。




