嫉妬との対峙
全国のギルドマスターたちが熱を帯びた議論を交わす、ホテル最上階の大宴会場。
その厳粛な空気の中で、俺がギルマス一言告げた、直後のことだった。
「――緊急事態です!!」
円卓の端で通信機をモニタリングしていた連盟のオペレーターが、血相を変えて立ち上がった。
その悲痛な叫びに、会場の空気が一瞬にして凍りつく。
「何事だ。騒々しい」
「ほ、ホテルの1階エントランスおよび、外周に配置していたAランクの防衛部隊からの通信が……全滅、いえ、全員『ロスト』しました! 外部との通信ケーブルも物理的に切断されています!」
「なんだと!?」
総裁が立ち上がり、各地方のマスターたちも一斉に席を蹴った。
ホテル周辺には、数百名規模の精鋭冒険者が結界を張って警備に当たっていたはずだ。
それが、何の戦闘音すら上げることもなく、一瞬にして全滅するなどあり得ない。
「敵襲だ! 護衛、扉を固めろ!」
「窓から離れろ! テロリストの奇襲かもしれん!」
怒号が飛び交う中、護衛たちが即座に武器を抜き、円卓を囲むように強固な防衛陣形を敷く。
数名の魔術師は瞬時に魔法を展開し、物理と魔法の双方を完全に遮断する多重防壁を、会場の出入り口である扉へと重ね掛けした。
通常のテロリスト相手であれば、これで完全に封殺し、迎撃の準備を整えられていただろう。
だがその悪意は、そんな生易しいものではなかった。
『それ』は、ホテルの外からやってきたのではない。
すでに建物の下層を完全に飲み込み、壁の中を、換気口を、エレベーターシャフトを伝って、この最上階へと『這い上がってきていた』のだ。
「……ッ!? おい、足元を見ろ!!」
護衛の一人が、悲鳴のような声を上げた。
分厚い絨毯が敷かれた床。
その繊維の隙間から、そして強固な結界が張られたはずの扉の隙間から、ドロドロとした『黒い泥』が、まるで意志を持ったスライムのように、音もなく滲み出してきていた。
「なんだこの薄気味悪い泥は……! 洗い流せ!」
「【水龍の大激流】ッ!!」
後衛の魔術師が、即座に最大水圧の激流を泥に向けて放った。
だが、強烈な水塊が黒い泥に着弾した瞬間。水音は響かず、水飛沫すらも上がらなかった。
魔法という『概念』そのものが泥に吸い込まれ、所有権を奪い取られたかのように、あっけなく掻き消えてしまったのだ。
「ば、馬鹿な!? 私の魔力が……結界ごと、吸い取られている!?」
魔術師たちが驚愕に目を見開く中、黒い泥は一気に増殖を開始した。
多重防壁ごと、巨大な扉が腐り落ちるように崩壊する。
開け放たれた入り口から、津波のような泥の絨毯が会場内へと一気に流れ込んできた。
「グ、アァァァッ!?」
「力が、抜ける……っ! 武器が、重い……っ!!」
足元を泥に覆われた前衛のエリート冒険者たちは、次々と膝から崩れ落ちていった。
彼らの身体から放たれていた強大な魔力が、黒い泥に触れた端から根こそぎ奪われていく。彼らが身につけていた防具すらも、その輝きを失い、ただの重たい鉄屑へと成り下がってしまった。
そして、入り口に巨大な『黒い沼』が形成された、次の瞬間。
ボコッ、ボコボコッ、と泥が沸騰するように泡立ち――その沼の底から、一人の男が、エレベーターで昇ってくるかのようにゆっくりとせり上がってきた。
「アァ、いいなァ……。素晴らしい連携だ。素晴らしい才能だ。実に……妬ましいなァ!!」
黒い燕尾服。顔の半分を隠す奇妙な仮面。手にはステッキ。
ホテルの下層をまるごと『嫉妬の泥』で沈め、その泥を空間転移のゲートとして這い上がってきた男――NULLの幹部『嫉妬』のエンヴィーが、歪んだ笑みを浮かべてその場に顕現した。
「貴様、何者だ! この場をどこだと思っているんや!」
関西の武闘派ギルドマスターが、泥に足を取られながらも怒鳴り声を上げる。
「お前たちのその鍛え上げられたステータスも、高価な魔道具も、輝かしい名声も。ぜぇんぶ僕が貰ってあげるよ! 【大罪領域:嫉妬の泥濘】!!」
エンヴィーが芝居がかった動作で両手を広げると、床を這う黒い泥がさらに波打ち、円卓に座るギルドマスターたちへと襲いかかった。
「ヒャハハハハッ! 無駄だ無駄だ! 僕の前では、どんな才能も努力も意味を持たない! 全ては僕のコレクションとして没収される運命にあるんだからねェ!」
狂ったように高笑いするエンヴィー。
その圧倒的かつ理不尽な『大罪』の権能の前に、日本最高峰の戦力たちが、ただの無力な赤子のように次々と泥の底へ這いつくばらされていく。
だが、その絶望的な泥の海の中で。
全く意に介さず、ただ静かに腕を組んで立っている『異物』がいた。
「……ギルマス、下がっていてください。少し、泥が跳ねるかもしれません」
俺は、迫り来る黒い泥を避けようともせず、足元に置いていたドドンキの袋を拾い上げて言った。
俺の斜め前にいたギルマスは、周囲の惨状に冷や汗を流しながらも、絶対の信頼を込めて頷いた。
「頼む、結城。……あのふざけた手品師を、ぶちのめしてこい」
俺は「ええ、任せてください」と短く答え、円卓の横を通り抜け、エンヴィーへと向かってゆっくりと歩みを進めた。
周囲のエリートたちがバタバタと倒れる中、俺の足元に触れた泥は、ジュワッと音を立てて逆に蒸発していく。
嫉妬の泥による魔力吸収を完全に弾き返していたのだ。
「おやァ?」
真っ直ぐに自分へ向かってくる俺の姿に気づき、エンヴィーがステッキの動きを止めた。
「随分と貧乏くさいジャージを着たネズミが残っているねェ。
荷物持ちの分際で、僕の泥に耐えられるとは……少しは特殊な耐性スキルでも持っているのかな?」
エンヴィーの仮面の奥の瞳が、俺を値踏みするように細められる。
だが、彼は俺の顔を見ても気づく素振りは見せなかった。
無理もない。十数年前、ダンジョンで天道茜の才能を奪い去ったあの日、俺はただ逃げ惑うことしかできない、何もない無力な底辺だったのだから。
「テメェのくだらねえ自己紹介は聞いてねえよ。俺はテメェに、一つだけ用があって来たんだ」
俺が敵意を剥き出しにして低い声で睨みつけると、エンヴィーは「生意気だなァ」と呆れたように肩をすくめた。
「まあいい。君みたいな雑魚を相手にするのは、僕の仕事じゃないからね。
……やれ、僕の可愛いお人形達。
つい先日、東北地方のダンジョンに潜っていたところを襲って手に入れたばかりの、新鮮なオモチャを見せてあげるよォ!」
エンヴィーがパチンと指を鳴らした。
その瞬間、彼の足元に広がる泥沼から、巨体を黒い泥に覆われた一人の男が、ズルリと這い出してきた。
「なっ……あれは、東北支部で先月から行方不明になっていたAランク冒険者の……ッ!?」
円卓に突っ伏していたマスターの一人が、悲鳴のような声を上げる。
淀んだ虚ろな瞳。意思を完全に奪われた、機械のような立ち姿。
かつて高名だったであろうその大柄な冒険者は、全身の血管に呪いのような黒い脈を不気味に這い回らせていた。
手にした身の丈ほどもある巨大な大剣には、嫉妬の権能である漆黒の炎がドロドロと纏わりついている。
「さあ、見せてやりなよ! 君のその自慢の怪力で、その小汚いジャージ男をやってしまえ!」
「……あ、ガ……ッ」
操り人形と化した冒険者が、濁った唸り声を上げ、床を蹴った。
かつての手練れの技に、嫉妬の大罪による強大なバフが乗った、目にも止まらぬ神速の突進。
漆黒の炎を纏った鋼の大剣が、空間を切り裂きながら、俺の脳天めがけて一切の容赦なく振り下ろされた。
「し、死ねェッ!!」
エンヴィーが歓喜の叫びを上げる。
俺は、迫り来る大剣の必殺の一撃を。
――カシッ。
人差し指と親指の『二本指』だけで、軽くつまんで止めた。
「……あ?」
エンヴィーの歪んだ笑いが、顔に張り付いたままピタリと硬直した。
巨大な大剣は、俺の指の間に挟まれたまま、微動だにしない。
人形となった冒険者がどれほど腕力を込めようと、俺の指先一つ動かすことすらできていなかった。
「な、に……!? 何をしている、遊んでないでさっさとその男を――」
「遊んでなんかいねえよ」
俺は、大剣を指で挟んだまま、エンヴィーを冷酷に見据えて言い放った。
「あんたのくだらねえ嫉妬に付き合って、この操り人形にやられる気は一切ねえ。……俺はただ、テメェから全てを奪い返しに来ただけだ」
俺の心臓の奥底で、【強欲】の炎が、かつてないほどの激しい怒りを持って燃え上がった。
あの男の泥の底に、恩人である茜さんが囚われている。
ならばこの男の権能そのものを完全に叩き潰すまでだ。




