閑話 世界の裏側では
現実世界の物理法則が一切通用しない、次元の狭間。
無数のモニタースクリーンが空中に浮かび、膨大なデータが滝のように流れるその真っ白な空間は、世界を維持・監視するための『調停の領域』だった。
その空間の中央に置かれた、およそ神の領域には似つかわしくない安っぽいパイプ椅子に、一人の男が深く腰掛けていた。
無造作に乱れたボサボサの髪に、だらしなく羽織った白衣。右手には、飲みかけのコーヒーが入った「世界平和」と書かれたマグカップが握られている。
彼こそが、この世界システムを裏から調整する高次元の存在――現行の『管理者』だった。
「……あいつ、また変なジャージ買ってるし。
黒金って、ヤンキーかよ」
管理者はマグカップに口をつけながら、正面のメインモニターに映し出された映像を見て、呆れたように、しかしどこか楽しげに口角を吊り上げた。
モニターの中では、ジャージを着た結城誠が、京都の高級ホテルでスロースから奪った怠惰の欠片をドドンキの袋に突っ込んでいるところだった。
『――観測、階位の連続昇格。対象個体名・結城誠。魂の格、第四階位への到達を確認』
空間に、無機質なシステムの音声が響き渡る。
「想定以上のスピードだな。大罪の歪みに耐えうるどころか、完全に自らの血肉として同化させていやがる。
……直接会って忠告してやった時も相当に不遜で面白いヤツだったが、まさかここまでとはね」
管理者は、かつて特級ダンジョンのイレギュラー対応で、結城誠の前に直接姿を現した時のことを思い出し、くつくつと喉を鳴らした。
システム上のバグや下等なダンジョンボスとは違う高次元の存在である自分に対し、あの男は全く臆することなく、ただ己の『強欲』のままに牙を剥いた。
その規格外の精神力と異常なステータスは、退屈を嫌う管理者にとって、久々に現れた最高のエンターテインメントだった。
だが、彼が結城誠を注視している理由は、単なる暇つぶしだけではない。
地上の人間たちから見れば、ダンジョンは突如として現れた最悪の天災であり、命を奪う迷惑極まりない『悪』に他ならない。
日々、魔物の脅威に怯え、命を懸けて迷宮に潜る冒険者たちからすれば、なぜ神はこんな理不尽な仕組みを作ったのかと呪いたくなるだろう。
しかし、管理者サイドの真実からすれば、それは全く異なる意味を持っていた。
ダンジョンとは、滅びゆく世界を繋ぎ止めるための、あまりにも残酷な『必要悪』だったのだ。
◆
時計の針を、遥か過去へと巻き戻す。
当時、世界を管理していたのは、現行のシステムを敷いた『統括者』や、この白衣の男ではなかった。
その時代、世界の全権を握り、君臨していたのは、前々管理者である『セプテム』という絶対者だった。
セプテムの統治は、一見すると平和そのものだった。
地上には魔物の一匹もおらず、人間たちは超常の力に怯えることなく、自らの文明を穏やかに発展させていた。しかし、それは表面上の安泰に過ぎなかった。
セプテムの管理は、あまりにもずさんで、怠惰だったからだ。
世界システムとは、常にマナの循環と、魂の代謝を繰り返さなければ維持できない精密な機械のようなものだ。
しかしセプテムは、自らの権能の消費を嫌い、システムに発生した細かなエラーやマナの淀みを「大した問題ではない」と放置し続けた。
その結果、世界は見えない形で、徐々に、しかし確実に衰退していったのだ。
大地の底から魔素が枯渇し、魂の輪廻が目詰まりを起こし、空間の強度が紙のように薄くなっていく。人間たちが気づかぬうちに、世界は内側から腐り落ち、自壊の一途を辿っていた。
このままでは、世界の終焉が訪れる。
その決定的な破滅を危惧したのが、世界の基盤そのものを司る『統括者』だった。
統括者は世界の滅亡を回避するため、他の管理者たちを仕向け、セプテムに管理権の委譲とシステムの是正を求めた。
しかし、絶対者としての座に執着したセプテムは、それを拒絶し、己を正当化するために徹底的に抗った。
神々の戦争。それは地上に生きる人間たちには観測すらできない、概念と概念、次元と次元の衝突だった。
永きにわたる、時空すらも歪むような戦いの果てに、セプテムは敗北した。
絶対の力を誇った主神は四肢を捥がれ、管理者の権能を根こそぎ剥奪された。
そして、セプテムは消滅した。
その魂は塵となり、世界から跡形もなく消え去った――誰もが、そう確信していた。
だが、それが全ての過ちの始まりだった。
消えたはずのセプテムは、完全には消滅していなかった。
剥奪された権能の残滓と、統括者たちへの底なしの怨念が混ざり合い、世界システムの深淵へと逃げ込み、誰も感知できない『バグ』として残り続けていたのだ。
これに現行の管理者たちが気づいたのは、戦争が終わってから、かなりの時間が経った後の話だった。
そして気づいた時には、すでに手遅れに近い状態だった。
システムのバグとして、世界の暗黒面に寄生し続けたセプテムの残滓は、世界が代謝を繰り返すたびに排出される「エラーデータ」や「人間の負の感情」を貪り喰らい、影の中で肥大化し続けた。
かつての主神としての記憶と知性を歪んだ形で取り戻したその『バグ』は、やがて強大な力をつけ、現行のシステムそのものを内側から破壊しかねないという、凶悪極まる厄災へと変貌を遂げていた。




