怠惰と強欲
――パリンッ!!!!
俺の強欲を乗せた右拳が虚空を殴りつけた瞬間、夕焼け空に覆われた平和なギルドの景色に、巨大な亀裂が走った。
それはまるで、出来の悪いガラス細工が内側から弾け飛ぶような、呆気ない崩壊だった。
偽物のエク子も、天道さんも、温かいカフェテラスも。
すべてがノイズ混じりのポリゴンの破片となってパラパラと砕け散り、圧倒的な漆黒の闇の中へと吸い込まれていく。
『……よく戻ってきましたね、バカマスター。心拍数、脳波、共に正常値まで回復しました』
『ふははははっ! さすがはわらわの宿主よ! あんな生ぬるい泥水で満たされたと錯覚するような、安っぽい器ではないわ!』
幻術のノイズが晴れ、トラ子の安堵したような声と、グリ子の傲慢な高笑いが、俺の脳髄にクリアに響き渡った。
「ああ、悪い。ちょっと長めの昼寝をさせられてた」
俺は首を左右にゴキリと鳴らし、俺を取り囲んでいた【怠惰なる者の玉座】のドス黒い闇そのものを、両手で強引に引き裂いた。
バリィィィィィンッ!!!!
空間が物理的な音を立てて砕け散り、夏の強烈な西日が、眩しいほどに俺の視界へと差し込んできた。
刺すような熱気、鉄錆と油の不快な匂い。
不便で、暑苦しくて、ストレスだらけの――俺の生きる『現実』の世界だった。
「……は?」
正面から、間抜けな声が漏れた。
十数メートル先。圧縮された廃車のブロックの上に置かれた天蓋付きベッドで、黒いシルクのパジャマを着たスロースが、信じられないものを見るように目をひん剥いていた。
「な、んで……? どうして、君が僕の『玉座』から出てこられるの……?」
スロースは震える手で、俺を指差した。
「君の脳内をスキャンして、君が一番望んでいる『ストレスのない最高に幸せな世界』を完璧に作り上げたはずだ!
痛い思いをして戦う必要なんてない、みんなが笑顔で生きてる世界だぞ!? 抜け出す理由なんて、どこにもないじゃないか!!」
「確かに、居心地は最高だったよ」
俺は黄色いジャージのポケットに両手を突っ込んだまま、ザクッ、ザクッと砂利を踏みしめて、スロースめがけてゆっくりと歩みを進めた。
「俺に一切の負担をかけさせない、完璧に最適化された、争いも悲しみもない世界。
……だけどな、そんなお膳立てされた偽物の中で腑抜けるくらいなら、俺は血反吐を吐いてでも、現実でアイツを取り戻す道を選ぶ」
「狂ってる……! 君のその『強欲』は、バグだ……! 与えられた幸せで満足できないなんて、ただの病気じゃないか……ッ!!」
スロースは完全にパニックに陥り、ベッドから転げ落ちるようにして後退った。
彼のトロンとしていた気怠げな瞳には、今や明確な『恐怖』が張り付いていた。
自分の絶対の切り札である精神檻を、純粋な意志の力だけで叩き割るバケモノを前にして、彼の怠惰な精神は耐えきれなくなっていた。
「く、来るな! 近づくなァァッ!!」
スロースが両手を振り回すと、周囲のスクラップの山から、無数の鉄骨や廃車がドス黒い魔力を帯びて空中に浮き上がった。
それらは巨大な津波のようにうねり、俺めがけて一斉に降り注いでくる。
物理的な質量による、ヤケクソの集中砲火だった。
「……遅えよ」
俺は一歩も退かず、ただ右腕を無造作に振るった。
拳の風圧だけで生み出された衝撃波が、迫り来る何トンもの鉄くずの津波を、真正面から木っ端微塵に粉砕し、後方へと吹き飛ばした。
「ヒィッ!?」
鉄の雨が晴れた直後、俺の姿はすでにスロースの目の前に肉薄していた。
「しまっ――」
スロースが防御魔法を唱える間も与えず、俺は極限まで威力を『一割以下』に抑え込んだ右ストレートを、彼の顔面めがけて叩き込んだ。
――ドガァァァァァンッ!!
「ガ、アァァァッ!?」
威力を殺したとはいえ、その衝撃は絶大だった。
スロースの身体は、彼が寝転がっていた高級なベッドごと吹き飛び、数十メートル後方のスクラップの山に激突して、大量の鉄くずに深く埋もれた。
砂埃が舞い上がり、廃材置き場に再び静寂が降り下りる。
「……ふぅ。これで終わりだ。寝起きにはちょうどいい運動だったな」
俺は残心を取り、大きく息を吐き出した。
周囲の空間に淀んでいたドス黒い魔力はすっかり霧散し、ただの暑苦しい夏の空気が戻ってきている。
俺はスロースが埋もれた瓦礫の山へと歩み寄り、鉄くずを押しのけた。
そこには、シルクのパジャマをボロボロにし、全身打撲で鼻血を流しながら、白目を剥きかけている怠惰の幹部の姿があった。
「ゲホッ、ゴホッ……! バ、バケモノ……っ。話が、違うじゃないか……。こんなの、絶対勝てるわけない……」
口から血を吐きながら、スロースが震える声で命乞いのような恨み言を漏らす。
「手加減してやったんだ、感謝しろ。さて、楽しい尋問の時間だ」
俺はスロースの胸ぐらを掴み、容赦なく強引に引き上げた。
「エンヴィーはどこにいる? 奴の次の狙いはなんだ。一秒でも口ごもったら、今度は本気で殴る」
「ひ、ヒィッ……! い、言う! 言うから、それ以上殴らないでくれ……! 痛いのは嫌いなんだ……!」
怠惰の王は、驚くほどあっさりと口を割った。信念も何もない、ただ与えられた力に甘えていただけの男の末路だ。
「エンヴィーは……来週、京都で開催される『全国ギルド会議』を狙ってる……っ!
奴の目的は、日本中のトップ冒険者たちが集まるあの場で、全員の力を奪い取り……自分こそが至高の存在だと、世界に知らしめることだっ」
「……全国ギルド会議、だと?」
確か片桐ギルマスも出席するはずの、大規模な会合だった。
あそこを襲撃し、目立つことで自らの嫉妬心と承認欲求を満たそうというのか。
他人の手柄や名声を奪うことにしか価値を見出せないあの腐った根性は、十数年前から微塵も変わっていないらしい。
「情報は貰った。約束通り、命までは取らねえよ」
「ほ、本当か……? よ、よかったぁ……」
スロースは心底安堵したようにへたり込み、完全に戦意を喪失した。
その精神は、俺という絶対的な力の前に完全に屈服し、へし折られていた。
その時、脳内でグリ子が楽しげに笑った。
『ふははっ、無様なものじゃな。
……宿主よ、ちょうど良い。貴様はすでに【第三階位】へと至っておる。
今の貴様なら、以前のように相手の命を奪わずとも、こうして『精神的に完全に屈服させた状態』であれば、対象の魂から力のみを抜き取る新たなの力が使えるようになっているはず。
そのアイテムボックスを使うんじゃ』
「へえ、そいつは便利だな。いちいち殺してたら寝覚めが悪いし、それに越したことはねえ」
俺は黄色いジャージのポケットをごそごそと探り、クシャクシャに丸まった黄色いビニール袋を取り出した。
ドドンキのロゴがデカデカとプリントされた、安っぽいレジ袋だ。
「じゃあ、遠慮なく貰っていくぜ。……【存在強奪】」
俺がドドンキの袋の口をガサッと開いてスロースに向けると、袋の中から凄まじい吸引力を持った黄金色の光が放たれた。
「え……? ア、アアアァァァァァッ!?」
スロースの魂の奥底に根付いていたドス黒い『怠惰の欠片』が、物理的な光の玉となって抽出され、そのままドドンキの安いレジ袋の中へとスポンッと吸い込まれていく。
力を根こそぎ奪われたスロースは、完全にただの無力な人間へと戻り、そのまま白目を剥いて気絶した。
同時に、俺の脳内にシステムのアナウンスが響き渡る。
『条件を満たしました。ドドンキの袋内の【大罪の欠片:怠惰】を吸収・統合します』
『マスターの魂の許容量が拡張されました。【魂の格】が【第三階位】から【第四階位】へと昇格しました』
ドクンッ、と。
俺の心臓が大きく跳ね、全身の細胞が歓喜に打ち震えるような感覚が駆け巡った。
ステータスの数字が上がるのとは違う、存在そのものの「次元」が一段階上に押し上げられたような、絶対的な全能感。
それと同時に、脳内にいるトラ子とグリ子の気配が、一段と強大でクリアなものへと変質していくのを感じた。
『マスター。第四階位への昇格を確認しました。これにより、我々システムAIにかけられていた【機能制限】の一部が解放されました。演算能力および、事象への干渉力が大幅に向上します』
『ふははははっ! 素晴らしいぞ宿主よ! わらわの欠けた半身がまた一つ満たされ、権能の具現化出力が跳ね上がったわ!
貴様のそのバカげた強欲ぶり、ますます気に入ったぞ!』
トラ子の冷静な報告に続き、グリ子が力強く歓喜の声を上げる。
どうやら、俺の器が大きくなったことで、彼女たちが現実世界に及ぼせるサポートの力も強力になったらしい。
「……第四階位、か」
俺は自分の両手を握り、開いた。
力が漲っている。
これなら、エンヴィーとの戦いでも遅れを取ることはないだろう。
「ああ。待ってろよ、エク子。あと一つ……エンヴィーをぶちのめして格を上げれば……そして最後には必ずお前を再構築してやれる。
お前の一番の取り柄である、あの騒がしい声を、もう一度聞かせてくれよ」
俺は気絶したスロースと側近たちを鉄くずの中に放置し、第4廃材置き場を後にした。
次なる舞台は、京都。
俺の恩人をどん底に突き落とした因縁の男、『嫉妬』のエンヴィーとの決着の時は、すぐそこまで迫っていた。




