ふとした違和感
「……エク子。お前、いつから『実体』を持った?」
「え?」
エク子が、不思議そうに瞬きをした。
「お前は、俺の脳内に語りかけてくるか、空中に投影されるだけの『ホログラム』のはずだ。
俺以外の人間には見えないし、声も聞こえない」
そう、違和感の正体はそこだった。
しずくも、葵も、天道さんも、ごく自然にエク子と会話を交わしていた。
それに、昼間のダンジョンでも、さっきのオムライスでも。
エク子は、その『手』で直接、物理的な物体を運んできた。
ホログラムであるお前に、そんなことができるはずがない。
「もう、マスターったら何を言っているんですか。私はずっとここにいますよ。ほら」
エク子は、ニコリと笑って俺の手を握ってきた。
温かく、柔らかい感触。
「……そうか」
俺は、テーブルの上にあった水の入ったグラスを、無造作に指で弾いた。
コトン、と傾いたグラスから、水がこぼれ落ちそうになる。
だが、その水滴がテーブルに落ちるよりも早く、エク子の手が信じられないほどの速度で伸び、物理的なグラスをガッチリとキャッチして元の位置に戻したのだ。
水滴ひとつ、テーブルには落ちていない。
「おっと、危ないですよマスター。服が濡れたら、大変ですからね」
エク子は、機械的なほどに滑らかな動作でグラスを置き直した。
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏で、これまでの光景が急速に『不自然なもの』として結像し始めた。
安全すぎるダンジョン。
争いも対立も存在しない、ギルドの穏やかすぎる空気。
そして何より、ホログラムという概念すら無視して実体を持ち、俺に一切の負担や心配をかけさせまいとすべての『障害』を排除する、完璧すぎるエク子。
もし本物のエク子なら、グラスが倒れた時、物理的に止めることなんてできない。
ただ「ああっ、マスター! お水こぼれちゃいますよ、気をつけてーっ!」と騒がしく叫ぶことしかくらいしかできないはずなのだ。
この世界は、俺にストレスを与えないように【最適化】されている。
俺の記憶を都合よく改ざんし、「こうであればよかった」という願いを、物理法則すら無視して具現化させた、最高に居心地のいい【箱庭】だ。
「……なぁ、天道さん」
俺は、向かいの席で笑っている天道茜に向かって、静かに問いかけた。
「『エンヴィー』って男のこと、覚えてるか?」
その名前を出した瞬間。
葵も、しずくも、天道さんも、まるで映像が一時停止したかのように、ピタリと動きを止めた。
「えん、ゔぃー?」
数秒の沈黙の後、茜さんが首を傾げて笑った。
「何それ、新しいケーキ屋さんの名前? 誠くん、甘いもの食べたくなったの?」
「……いや、なんでもない」
確信に変わった、ここは現実じゃない。
俺の戦う意志を奪い、生きる気力を奪い、ぬるま湯の中で魂をゆっくりと溶かしていく、最悪の幻術だ。
(ザザザッ……! マスター……! 精神汚染、危険領域です……! 目を、開けて……!)
ノイズだと思っていた音は、外部から俺の魂を必死に叩き起こそうとしている、トラ子の警告音だった。
現実の俺の肉体は今、とんでもない危機に瀕しているのだろう。
「マスター? どうしたんですか、そんな怖い顔をして」
実体を持った偽物のエク子が、心配そうに俺の腕に触れてきた。
その手は温かく、心地よい。彼女が光の砂となって消滅したあの日、俺がどれほど『触れたい』と願った感触か。
「ここには、マスターを傷つけるものは何もありませんよ。つらい戦いも、悲しい別れも、もうありません。
マスターはずっと、ここで私と一緒に、楽しくのんびり暮らせばいいんです」
偽物のエク子が、甘い声で囁く。
それは、怠惰の悪魔が作り出した、最強の毒だった。
「……確かに、ここは最高に居心地がいい」
俺は、エク子の手をそっと振り払った。
そして、テーブルからゆっくりと立ち上がる。
「俺は、お前が消えたあの日からずっと、もう一度お前に会いたいって、そればっかり考えてたよ」
「マスター……」
「でもな」
俺は、ジャージのポケットに両手を突っ込み、偽物の平和な夕焼け空を見上げた。
「お前は、こんなに気の利く完璧なAIじゃねえ。実体もない、他人の目にも見えない。
俺の頭の中にしかいないくせに、いつも無駄に明るくて元気で、うるさいくらい応援することしかできねえ。
……でも、俺がピンチの時は、誰よりも俺を信じて全力で背中を押してくれる、最高に騒がしい相棒なんだよ」
俺の心臓の奥底で、チロチロと消えかかっていた炎が、再び猛烈な勢いで燃え上がり始めた。
「誰かに与えられた、ご都合主義の実体なんざ、俺は一ミリも欲しくねえ。俺は、俺の意志で、本物のエク子を再構築する」
俺が右拳を強く握りしめた瞬間。
ギルドのカフェテラスも、夕焼け空も、テーブルも、すべてがノイズ混じりのポリゴンとなってパラパラと崩れ始めた。
「マ、マスター……! 行かないで! ここなら、ずっと幸せに――」
偽物のエク子が、悲痛な顔で実体のある手を伸ばしてくる。
俺は振り返ることなく、その怠惰の幻影に向かって、低く言い放った。
「……じゃあな。偽物でも嬉しかったよ」
俺は、強く握りしめた右拳を、幻術の空のど真ん中めがけて、思い切り突き出した。
「【存在強奪:概念剥離】……!!」
ドンッ!!!!
俺の強欲の拳が、怠惰の作り出した理想郷の『概念』そのものを、内側から完全に粉砕した。




