優しい世界
抜けるような青空と、心地よいそよ風。
俺たちは今、東京郊外にある初心者向けの低層ダンジョン【緑葉の迷宮】に足を踏み入れていた。
木漏れ日が差し込む森の道は、ダンジョン特有の血生臭さや魔素の淀みとは無縁で、まるでよく整備されたハイキングコースのようだった。
「せいッ!」
茜さんの澄んだ掛け声と共に、彼女のショートソードがゴブリンの胴体を鮮やかに薙ぎ払う。
ゴブリンは悲鳴を上げる間もなく光の粒子となって消え、後にはポーションの素材となる綺麗な魔石だけがコロンと転がった。
「ふふっ、これで五匹目! 誠くん、ドロップ品の回収お願いね!」
「おう、任せとけ」
俺はジャージのポケットから手を抜き、落ちている魔石を拾い上げてリュックに放り込んだ。
戦闘に参加する必要すらない。俺の役目は、天道さんが倒した魔物のドロップ品を回収するだけの、完全な『荷物持ち』だった。
だが、それがちっとも苦ではない。むしろ、俺が一番望んでいた平和な光景だった。
「マスター! 茜さん! お疲れ様です、冷たいお茶をご用意しました!」
少し離れた安全圏から、エク子が、水筒と紙コップを持って元気いっぱいに駆け寄ってくる。
木の根っこが張り出した足場の悪い道だが、彼女は一切つまずくことなく俺たちの前までやってくると適温に冷えた麦茶を注いで、その小さな『手』で直接俺に手渡してくれた。
「サンキュー、エク子。気が利くな」
「えへへ、どうですかマスター! 応援するだけじゃなくて、こうして直接お茶を出したり、マスターのお手伝いができるんですよ! 私、とっても役に立ってますよね!」
エク子は嬉しそうに、えっへんと胸を張る。
横で見ていた茜さんも、「エク子ちゃんがいてくれると、本当に助かるわね」と優しく微笑みかけていた。
「平和だな」
俺がポツリと呟くと、茜さんが麦茶を一気に飲み干して笑った。
「うん、そうだね。昔はもっと強い魔物を倒して一攫千金! って息巻いてた時期もあったけど……こうして誠くんやエク子ちゃんと一緒に、安全な依頼をこなしてのんびり暮らすのも、悪くないかなって」
「……そうか。天道さんがそう言うなら、それが一番だ」
俺は心からそう思った。
NULLのことも、スロースのことも、頭の片隅からすっかり抜け落ちていた。
戦う理由がないのだ。
俺の大切な人たちは、みんなここで笑顔で生きているのだから。
◆
ダンジョン探索を早々に切り上げ、俺たちは冒険者ギルドのカフェテラスへと戻ってきた。
夕暮れ時の柔らかいオレンジ色の光が、ギルド内を温かく包み込んでいる。
「あ、誠さん! おっそーい! 早くこっち来て一緒に飲みましょうよ!」
テラス席の奥から、元気な声が飛んできた。
冒険者の葵としずく達が、俺たちに手を振っていた。
「よお、お前らもクエスト帰りか?」
「私達は今日はお休み! 平和すぎてギルドからの指名依頼も全然ないし、毎日が夏休みみたいなものです!」
葵が笑いながらウインクをした、その時だった。
「お待たせいたしました! マスターの分の特大オムライスです!」
エク子が、湯気を立てる大盛りのオムライスの皿を両手でしっかりと持ち、テーブルの上にドンッと置いた。
「ほら、誠の好きな特大サイズ。エク子ちゃんが『マスターの今日のカロリー消費量なら、このサイズが最適です!』ってわざわざ厨房にお願いしてくれたらしいですよ、本当に優秀ですね」
しずくが感心したようにエク子を褒める。
エク子は「えへへ」と照れくさそうに笑い、俺の隣の席にちょこんと座った。
「さぁ、冷めないうちにお召し上がりください! マスターの胃袋も、私が完璧にサポートしますよ!」
「お、おう……サンキュー」
俺はスプーンを手に取り、オムライスを口に運んだ。
絶品だった。俺の好みの味付けそのもので、卵のふわふわ具合も完璧だ。
しずくが笑い、天道さんがそれにツッコミを入れ、葵が呆れたようにため息をつく。
その横で、エク子が甲斐甲斐しく俺のグラスに水を注いでくれる。
これ以上ないほど、幸福な時間。
永遠にこのまま、日が沈まなければいいのにとすら思う。
(……なんで、俺はあんなに必死になって戦ってたんだっけ?)
俺はふと、スプーンを止めてぼんやりと考えた。
魂の格を上げる? 嫉妬を倒す?
そんな血生臭いこと、もうどうでもいいじゃないか。俺が守りたかったものは、もう全部ここにある。
もう、休んでしまおう――。
(ザザッ……! ……おき、起きろ……! バカ、宿主……ッ!!)
キィンッ、と。
脳髄を針で刺されたような鋭いノイズが走り、俺は思わず眉間を押さえた。
「誠くん? どうしたの、頭痛いの?」
「あ……いや、なんでもない。ただの立ちくらみだ」
心配そうに顔を覗き込む天道さんに笑いかけながら、俺は胸の奥に、ほんの小さな『棘』のような違和感が刺さるのを感じていた。
何か、がおかしい。
俺は隣で満面の笑みを浮かべているエク子を見た。彼女は、俺の視線に気づくと、首をコテッと傾げた。
「どうしましたか、マスター? オムライスの味が濃すぎましたか? すぐに作り直させますか?」
「いや、味は完璧だ。……完璧すぎるくらいにな」
俺はスプーンを皿に置き、エク子の瞳をじっと見つめ返した。
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