『怠惰なる者の玉座』と、幸福なまどろみ
スロースの足元から溢れ出した漆黒の魔力は、波紋のように地面を這い、一瞬にして第4廃材置き場のすべてを飲み込んでいった。
照りつけていた夏の西日も、赤茶けたスクラップの山も、油まみれの地面も、すべてが底なしの闇の中へと消え去っていく。
『展開、【大罪領域:怠惰なる者の玉座】』
男の気怠げな声が空間に溶けるように響いた直後、俺の身体は完全な虚無へと投げ出された。
光もなければ、音もない。
上下左右の感覚すら曖昧になり、まるで濃厚なインクの底へと深く沈んでいくような、圧倒的な暗闇だった。
「……ッ!」
俺は即座にジャージのポケットから両手を抜き、いつでも拳を振るえるように身構えた。
特級ダンジョン【奈落の御所】を踏破し、暗黒龍を倒し【第三階位】へと至った俺の肉体。
筋力や敏捷、それに耐久も人間の域を遥かに逸脱して、更には存在剥離もある。
これほどの力があれば、どんな結界だろうと内側から強引に殴り砕けるはずだった。
だが。
「……あれ?」
拳を握りしめようとした瞬間、妙な感覚が全身を襲った。
身体が重いわけではなかった。
筋肉が引き千切られるような過負荷があるわけでもない。
ただ、ひたすらに『心地よい』のだ。
冷たくて、柔らかくて、何もかもが満たされているような感覚。
まるで凍えるような冬の朝に、最高級の羽毛布団の中に潜り込んでいる時のあのみるみる精神がほどけていくような快感が、脳の髄へと直接流し込まれてくるようだった。
「ふぁぁ……。驚いた? 強欲くん」
闇のどこからともなく、スロースの気怠げな声が響いた。
「僕の領域はね、ただの物理的な結界じゃないんだ。
ここに閉じ込められた生き物は、自分の魂が一番望んでいる『最高の安らぎ』を与えられる。
戦うことも、怒ることも、生きることすらも……全部面倒くさくなっちゃうんだよね」
息をするのすら、どうでもよくなるような感覚。
瞼が鉛のように重くなり、意識の輪郭が急速にぼやけていく。
立ち向かうべき敵の姿も、自分がどうしてここにいるのかという理由すらも、ドス黒い怠惰の泥の中に溶けて消えていくようだった。
(ダメだ……目を、開けろ……)
頭では分かっているのに、肉体が命令を拒否していた。
張り詰めていた闘志が、温かい水の中に溶かす砂糖のように、跡形もなく消えていく。
俺の意識は、底なしの深い、深い眠りの底へとゆっくりと落ちていった。
◆
「――誠くん! 起きて、誠くんったら!」
鼓膜を震わせる、ひどく懐かしい声に、俺はパチリと目を開けた。
まぶしい太陽の光が、視界いっぱいに飛び込んでくる。
「うおっ……!?」
俺は慌てて跳ね起き、周囲を見回した。
そこは、第4廃材置き場でもなければ、世界の管理者がいる真っ白な空間でもなかった。
見慣れた冒険者ギルド東京本部の、一階にある明るいカフェテラスだった。
窓の外には、夏の青空と、穏やかに風に揺れる街路樹が見えている。
「もう、またお昼休みに居眠りしてたでしょ? 昨日の遠征で疲れてるのは分かるけど、緊張感がなさすぎだよ」
呆れたように笑いながら、俺の目の前でアイスコーヒーのグラスを揺らしている女性がいた。
短い黒髪に、快活そうな瞳。
軽装のアーマーを綺麗に着こなしたその姿には、見覚えしかなかった。
「……天道、さん?」
天道茜。
落ちこぼれだった俺に声をかけ、救ってくれた恩人。
だが、『嫉妬』によってそのすべてを奪われたはずの彼女が、何事もなかったかのように目の前で笑っていた。
「なにいっちょ前に寝ぼけてるのよ!
ほら、午後からはまた低層ダンジョンの素材集めに付き合ってくれるって約束でしょ?
誠くんが荷物持ちをしてくれないと、私、重くて持って帰れないんだから」
「あ、いや……そう、だったな」
俺は戸惑いながらも、自分の頭を軽く叩いた。
何かがおかしい気がした。俺はさっきまで、もっと別の、ひどく血生臭くて過酷な場所にいたような気がする。
でも、茜さんの元気な笑顔を見ていると、そんな不吉な記憶の方がただの『悪い夢』だったような気がしてくるのだった。
「マスター、お水のおかわり持ってきましたよ!」
さらに、トコトコと軽い足音を立てて、テーブルに近づいてくる影があった。
少しタレ目の、愛らしい少女。
彼女はトレーの上に水の入ったグラスを乗せ、おどおどとした手つきで俺の前に置いた。
バシャ。
「ひゃああっ!? ご、ごめんなさい! 少しこぼしちゃいました!」
案の定、グラスを置く瞬間に手が滑り、テーブルの上に水がピシャリと跳ねる。
少女は慌ててジャージの袖でそれを拭き取ろうとして、天道さんに「もう、相変わらずドジなんだから」と苦笑されていた。
「……エク、子?」
俺の声が、微かに震えた。
特級ダンジョンの最下層で、俺の命を繋ぎ止めるためにその存在をすべて燃やし尽くし、光の砂となって消えてしまったはずなのに。
その彼女が、なぜか実体を持って、俺の目の前で恥ずかしそうに頬を染めていた。
「も、もう、マスターったら……じっと見つめないでください。
いくら私がお給仕に慣れていないからって、そんなに見られると緊張して、また間違えてそこらの椅子にかけちゃいますよ……」
「……あ、ああ。悪い」
俺は胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
だが、それは喪失の痛みではない。
あまりの幸福感に、魂が震えているような、そんな温かい感覚だった。
茜さんが無事で、冒険者を続けている。
エク子が消えずに、こうして俺の隣で笑っている。
これ以上ないほど、完璧で、満たされた日常。
俺が心の底から望んでいた、救いに満ちた世界が、そこには広がっていた。
「……あれ?」
ふと、胸の奥に、さざ波のような小さな違和感が走った。
本当に、小さな、気のせいとしか思えないような違和感だった。
俺は、何か大切なことを忘れているような――。
(ザザ……ッ……マスタ……! ……き、危険……ザザッ)
その瞬間、脳裏の遥か奥底で、ひどく耳障りなノイズ混じりの『声』が聞こえたような気がした。
必死に叫んでいるような少女の声。
そして、その背後でキィィィンと金属が擦れ合うような声の残響。
「……ん?」
俺は眉をひそめ、耳の後ろを掻いた。
「どうしたの、誠くん? どこか具合でも悪いの?」
茜さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……いや、なんでもない。ちょっと耳鳴りがしただけだ。気のせいだよ」
俺は笑って、その声を思考の隅へと追いやった。
そうだ、目の前には俺の大切な人たちがいる。
この温かくて平和な時間が、偽物であるはずがない。
俺は差し出されたアイスコーヒーに手を伸ばし、茜さんたちの楽しげな会話に身を委ねた。
ゆっくりと、確実に。
結城誠の意識が、まどろみの泥の中に埋もれていく。




