怠惰な刺客3
冒険者ギルド東京本部の広大なロビーが、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
「ヒィィィッ! な、なんだあいつ!?」
「顔から化け物が……っ! 逃げろ!!」
スタブルの顔の下半分を覆っていた無精髭が、ドス黒い魔力を帯びて急成長し、何十本もの鋭利な黒鋼のワイヤー(触手)となって空間を蹂躙し始めたのだ。
空気を切り裂く風切り音が響き、ロビーの椅子や掲示板の木枠が切断されていく。
「さぁて、どう避ける? ジャージくんよぉ!」
スタブルが下卑た笑い声を上げながら顎を振ると、黒鋼の髭が意志を持つ蛇のようにうねり、四方八方から俺の急所めがけて殺到してきた。
「……チッ」
俺は舌打ちを一つし、飛来するワイヤーの連撃を最小限の動きで躱し、時には手の甲で軽く弾いていなした。
ギィィィンッ! と、金属同士が激突したような甲高い音が響く。
スタブルの攻撃自体は今の俺には止まって見えるほど遅く、触れたところで痒くもない。
だが、問題は別のところにあった。
(クソッ……ここじゃあ、まともに反撃ができねえ)
俺が少しでも本気で踏み込めば、その余波(風圧)だけでギルドの建物が半壊してしまう。
そのためどうしても「いなす」ことしかできない防戦一方の形になってしまっていた。
『マスター、後方3メートルに逃げ遅れた初心者パーティーがいます! 右への回避は危険です!』
『ええい、鬱陶しいヒゲじゃな! 宿主よ、こんな雑魚どもごと建物を吹き飛ばしてしまえ!』
脳内でトラ子が警告を発し、グリ子が物騒な提案をしてくる。
「それは無理だ!ギルマスに後で大目玉を食らうのは御免だ」
俺はため息をつきながら、飛んでくる髭の先端を二本の指で摘まみ、そのまま軽く引っ張ってスタブルの体勢を崩した。
「おっと! 余裕ぶってんじゃねえぞ!」
スタブルは体勢を立て直すと、周囲の状況をぐるりと見渡した。
そして、俺が意図的に「背後にいる冒険者たちを庇うような立ち回り」をしていることに気がついた。
「ヒヒッ……なるほどな。テメェ、このギルドの連中を巻き込みたくなくて、わざと手加減してやがるんだな? 妙だと思ったぜ、スロース様が警戒するほどのバケモノが、大人しく俺の攻撃を凌いでるだけなんてよ」
「……だからなんだよ」
「エリートである俺様が、テメェのその甘さを利用しない手はねえってことさ!」
スタブルがニヤリと悪辣な笑みを浮かべた次の瞬間。
彼から伸びる黒鋼の髭の数本が、突如として俺への攻撃軌道を逸らし、一直線に受付カウンターの方向へと射出されたのだ。
「なっ――」
髭が向かった先。そこには、逃げ遅れた冒険者たちを安全な裏口へと誘導しようとしていた、受付嬢の雨宮さんの姿があった。
「キャッ……!?」
雨宮さんが悲鳴を上げる間もなく、黒鋼の髭は彼女の細い手首と胴体に巻き付き、乱暴に宙へと吊り上げた。
「雨宮さん!」
「ヒヒャハハハッ! 動くなよジャージ男! 少しでも妙な真似をしてみろ、この女の首をスイカみたいにスッパリと刎ね飛ばしてやるからな!」
スタブルは雨宮さんを盾にするように引き寄せ、彼女の白い首筋に、鋭く尖った髭の先端を突きつけた。
ほんの少しでも力を込めれば、容易に彼女の命を奪える状態だ。
ギルドのロビーが、水を打ったように静まり返った。
隠れて様子を見ていたベテラン冒険者たちも、人質を取られては手出しができず、ギリッと歯噛みするしかない。
「う、うぅ……結城さん、ごめんなさい……」
「おぉい、喋るな女!」
雨宮さんの首筋に、ツッと赤い血の線が滲む。
俺の目の奥で、冷たい怒りの炎がボワッと燃え上がった。
「……テメェ。一番やっちゃいけねえ手札を切ったな」
「負け惜しみ言ってんじゃねえぞ! テメェの強さは異常だが、心臓は普通の人間だろ? 今から俺の髭で、テメェの四肢に風穴を開けてやるからよ、抵抗せずに大人しく貫かれろ! もし避ければ、この女は――」
スタブルが勝ち誇ったように叫び、残りの髭を槍のように尖らせて、俺の肩や太ももめがけて射出してきた。
『マスター! 回避確率ゼロ! このままでは雨宮さんが……!』
トラ子の切羽詰まった声が響く。
だが、俺は一歩も動かなかった。回避もしない。
ただ、ジャージのポケットから手を抜き、静かに息を吸い込んだ。
『ふん、馬鹿めが。宿主よ、今こそ【第三階位】へと至った貴様の真の力、見せてやるがよい!』
グリ子の傲慢な笑い声が脳裏で響く。
そうだ、以前の俺ならステータスを削り落とす重いペナルティを覚悟しなければ、あんな厄介な魔力構成体に干渉することはできなかった。
だが、今の俺は違う。
魂の格が上がり、大罪と美徳の権能を、ある程度ノーリスクで引き出せるようになっている。
「……逆転の発想ってやつだ」
俺は、雨宮さんの首に巻き付いている黒鋼の髭ではなく、俺に向かって飛んできたスタブルの髭の一本を、素手でガシッと掴み取った。
「ハッ! 触れたら手が斬り裂かれるぜ――って、なんだと!?」
スタブルが驚愕の声を上げる。
筋力と耐久が桁違いの俺の手のひらは、傷一つ負うことなく、硬質な鋼の髭をガッチリとホールドしていた。
「いくぜ。……【存在強奪:概念剥離】」
俺が低く呟いた瞬間。
俺の掌から、不可視の『剥離の波長』が爆発的に放たれた。
普段は概念剥離は実体のない魔法やエネルギーを物理的に殴り飛ばすために使っていたが、今回は違う。
俺はスタブルの髭そのものを殴るのではなく、その髭を強靭な黒鋼のワイヤーへと変質させている『スロースの魔力バフ』という【概念】そのものを、直接剥ぎ取りにかかったのだ。
――パリィィィィィンッ!!!!
まるで、目に見えないガラスが砕け散るような、甲高い音がロビーに響き渡る。
俺の手から伝わった剥離の波長は、スタブルの髭を伝い、彼に付与されていた『怠惰』の魔力による強化を、根こそぎ弾き飛ばした。
「な、なんだ!? 俺の力が……スロース様から頂いた無敵の力が、消え……っ!?」
スタブルがパニックに陥り、叫ぶ。
先程まで鋼鉄のような強度を誇っていた黒い触手は、ただの「異常に長く伸びた、汚い無精髭」へと一瞬にして戻す。
そして張力を失った髭はダラリと力なく垂れ下がる。
「今だッ!」
その隙を見逃すような、ギルドの連中ではない。
陰で息を潜めていたベテランの冒険者数人が一斉に飛び出し、ただの毛の束となった髭をナイフであっさりと切り裂き、雨宮さんを引き剥がして安全な場所へと救出した。




