怠惰な刺客1
そこは光の届かない地下深く。
『NULL』の幹部たちが集う円卓の広間から少し離れた場所にある、怠惰なる者の私室があった。
「んふふ……あははははっ。いやぁ、傑作だねぇ。本当にあっという間に全滅しちゃったよ」
そこは、最高級のシルクで設えられた羽毛布団と、大小様々な無数のクッションで床が見えなくなるほど埋め尽くされた、異様な空間だった。部屋の中央で、スロースは退屈そうに空中のホログラムモニターを眺めていた。
モニターに映し出されているのは、昨夜、彼が差し向けた十人の配下たちが、ジャージの男に一切の抵抗を許されず、瞬く間に無力化されていく映像だった。
物理的な破壊力を極限まで抑え込み、街を破壊しないよう手加減をしているにも関わらず、速度と急所への正確な打撃だけでAランク相当の配下を完封する。
あの男の力は、もはや人間の枠を遥かに超えている。
「あのジャージの男、ただのバカ力じゃないね。もしかして誰かが特級ダンジョンを踏破したって噂、こいつだったりして。
……エンヴィーの野郎に因縁があるみたいだし、ますます面白くなってきたよね」
スロースはふかふかのクッションに深く沈み込み、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべた。
自分で動くのはこの世の何よりも嫌いだが、他人が汗水垂らして必死に足掻く姿を安全圏から見物するのは、彼にとって最高の娯楽だった。
「ねぇ、スタブル。起きてる?」
スロースが部屋の隅にあるもう一つのクッションの山に向かって声をかけると、そこからもぞもぞと一人の男が這い出してきた。
ボサボサに伸びきった髪。何日も洗っていないようなヨレヨレのシャツ。
そして何より目を引くのは、顔の下半分を覆い隠すほどの、むさ苦しく伸びた『無精髭』だった。
「……あぁ? なんですか、ボス。俺、今すげえいい夢見てたんですけど……もう少しで絶世の美女が俺に酒を注いでくれるところだったんすよ」
「ごめんごめん。でもさぁ、君の出番みたいなんだよね」
スタブルと呼ばれた男は、面倒くさそうに自身の顎髭をジョリジョリと掻いた。
彼もまた、スロースの側近として『怠惰』の力の一部を分け与えられているエリートの一人だ。
彼らはスロースの権能の恩恵を受け、自ら鍛錬することなく強大な力を得た代償に、その精神の根底には深い停滞が根付いている。
「出番って……俺が直接行くんですか? 勘弁してくださいよ、歩くのダルいっす。
他の連中に行かせればいいじゃないですか」
「そこをなんとかさ、頼むよ。
昨日のペットたちじゃ、あのジャージの男の底が全然見えなかったんだよね。
君なら、あの『髭』の権能で少しは面白いデータが取れるんじゃないかと思ってさ」
スタブルの権能。それはその名の通り、彼自身の『髭』に由来する異能だった。
一見するとただの不潔な無精髭だが、魔力を通すことで一本一本に鋼線ほどの強度を持たせ、伸縮自在の触手や凶器として自在に操ることができる極めて厄介な力だ。
「はぁー……。分かりましたよ。でも、あちこち街中を探し回るのなんて絶対に嫌ですからね。適当に網張って、向こうから来るのを待ちますんで」
「うん、任せるよ。適当にちょっかい出してきて」
スタブルは大きな欠伸をしながら、ズルズルと足を引きずって部屋を出ていった。
スロースは再びモニターに目を向け、大量のクッションの中でまどろみに身を任せた。
◆
翌日の昼下がり。
俺は冒険者ギルド東京本部の扉の前にいた。
大理石が敷き詰められた一階のロビーは、相変わらず多くの冒険者たちでごった返している。
昨日から世間を騒がせている『奈落の御所』の踏破ニュースの影響か、皆どこか浮き足立っており、あちこちで「誰が攻略したんだ」「自衛軍の極秘部隊らしいぞ」「いや、海外のSランクギルドの連合軍だ」といった噂話が飛び交っていた。
(……俺が一人で倒してきたなんて言っても、絶対に誰も信じないだろうな)
そんな喧騒を横目に、俺は真っ直ぐに受付カウンターへと向かった。
ずらりと並ぶ受付窓口の一つ。
そこには何かと世話になっている顔馴染みの受付嬢――雨宮さんが座っていた。
「雨宮さん。ギルマスは空いてますか?」
俺が声をかけると、書類に目を通していた雨宮さんが顔を上げ、俺の全身をジッと見て、小さくため息をついた。
「結城さん……。相変わらずそのジャージなんですね。
昨日のニュースで特級ダンジョンが踏破されたって日本中が大騒ぎになっているというのに、結城さんはまったくのマイペースですね……。
少しは影響を受けて装備を新調しようとか思わないんですか?」
「しーっ、声が大きいですよ雨宮さん。俺みたいな底辺上がりには特級ダンジョンの話なんて関係ないですから。
それに、ジャージは動きやすくて最高なんですよ」
「ふふっ、結城さんらしいですね。
……ギルドマスターは結城さんが来るのを予想していたみたいです。
来たらすぐに通すように言われていますから、内線を入れておきますね」
雨宮さんは慣れた手つきで手元の魔導通話器を操作し、ギルドマスターの執務室へと連絡を入れてくれた。
ギルドの誰も、俺があの特級ダンジョンを踏破した張本人だとは夢にも思っていない。
彼女の態度も、いつも通りの顔馴染みの冒険者に対するものだ。
「はい、確認取れました。最上階の執務室へどうぞ」
「ありがとうございます、では行って来ます」
雨宮さんに軽く手を挙げ、専用のエレベーターに乗り込んで最上階へと向かった。




