空っぽの帰路
ジャージ姿の男、結城誠が光の転送陣へと消え、特級ダンジョン【奈落の御所】は崩壊した。
その数時間後、異変を察知して恐る恐るダンジョンの入り口である古びた神社の境内へと足を踏み入れたのは、近隣を拠点とするAランクの偵察部隊だった。
「……おい、嘘だろ。なんだよ、これ」
先頭を歩いていたリーダーの男が、呆然と呟いた。
彼らの目に映っていたのは、信じがたい光景だった。
奈落の御所といえば、入り口に立つだけで低ランクの冒険者が泡を吹いて倒れるほどの、濃密で禍々しい『瘴気』が立ち込めていることで有名な死地だった。
空は常にどんよりと濁り、周囲の木々は枯れ果てているのが日常だった。
しかし今、彼らを包んでいるのは、清々しいほどの澄み切った空気だった。
木々の枝では小鳥がさえずり、空からは暖かな木漏れ日が差し込んでいる。まるで、ただの平和な裏山だ。
「隊長! 見てください、入り口の鳥居が……ダンジョンのゲートが、完全に消滅しています!」
「瘴気もゼロ……マナの残留波長も検出されません。まさか……」
部下たちの報告に、リーダーはゴクリと唾を飲み込んだ。
ゲートの消失、それはダンジョンというシステムにおいて、たった一つの事実しか意味しない。
「まさか、特級ダンジョンが……【踏破】されたっていうのか……っ!?」
♦︎
その事実は、瞬く間に情報機関を通じて拡散され、日本中のニュースネットワークを駆け巡った。
『速報! 封印指定・特級ダンジョン【奈落の御所】が何者かにより完全踏破!』
『歴史的快挙! 攻略したのはSランクギルドの連合軍か、それとも自衛軍の極秘部隊か!?』
前代未聞の特級ダンジョンクリアの報せに、世間は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。
ネット上の掲示板も、ニュース番組のコメンテーターたちも、一体誰がこの偉業を成し遂げたのかという話題で持ちきりだった。
――しかし。
当の本人である結城誠は、そんな世間の喧騒など微塵も気に留めることなく、一人、東京行きの新幹線の自由席に揺られていた。
◆
ガタン、ゴトン。
一定のリズムで響く新幹線の走行音だけが、耳に届く。
俺は窓側の席に深くもたれかかり、流れていく平和な日本の景色をぼんやりと眺めていた。
車内の電光掲示板には『奈落の御所、踏破される』というテロップが繰り返し流れていたが、今の俺にはどうでもいいことだった。
買ってきた幕の内弁当は膝の上に置かれたままで、箸をつける気にもなれない。
ボロボロに引き裂かれ、血と泥の跡がこびりついたジャージは流石にまずいため早々に着替えた。
だが何故か、周囲の乗客からは明らかに不審者を見るような目を向けられ、隣の席には誰も座ろうとしなかった。
それも当然だ、結城誠は気にせず話しているが、トラ子達は周りから見えていない。
つまり、ブツブツ喋ってる不審者という訳だ。
『……マスター。お弁当、冷めちゃいますよ』
『ふん。腹が減っては戦はできぬぞ、宿主。食わぬならわらわが強奪して喰ってやろうか』
脳内で、トラ子とグリ子が努めて明るい声を出してくれているのが分かった。
俺を気遣ってくれているのだ。
「……わりぃ。あんまり食欲がねえんだ」
小さく呟き、俺は目を閉じた。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇ってくる。
あの特級ダンジョンの最下層で、光の砂となって消えていった、エク子の笑顔が。
(……『私、本当に……【人間】みたいに、楽しかったんです』……か)
胸の奥が、ギリッと締め付けられるように痛んだ。
思い返せば、エク子との出会いから今日まで、本当に色々なことがあった。
絶望のどん底にいて自暴自棄になってたあの時に現れたエク子。
俺と二人三脚で美桜を助けるために奔走した日々。
途中からトラ子も加わってさらに賑やかになった日々。
いつも明るく、ポンコツなところはあったけど、いつも心の支えになっていた。
お前のその優しい声に、俺がどれだけ救われていたか。
あの絶対的な絶望だった暗黒龍との戦い。
俺の四肢が砕け散り、完全に詰みだと思ったあの瞬間。
エク子は己の全存在を代償にして、俺に希望の光を与えてくれた。
『どうか、生きて。……私の、大好きな、誠マスター』
その最後の言葉が、今も鼓膜にこびりついて離れない。
俺は、膝の上で固く握りしめた拳を、さらに強く握り込んだ。
爪が掌に食い込み、微かに血が滲む。
管理者は言っていた。俺の魂の【格】が上がれば、理論上は彼女を再構築できるかもしれないと。
「……絶対に取り戻す」
誰に聞かせるでもなく、俺はただ一人、決意の言葉を車内の空気に溶かした。
今の俺の階位は第3階位。
目標である第5階位まで、あと二つ。
特異点を殴り倒し、大罪や美徳のスキルを持つ者たちをぶちのめし、世界のシステムそのものを俺の拳で屈服させる。
どんな無茶をしてでも、俺は必ずあのポンコツを、もう一度この世界に引きずり出してみせる。
「待ってろよ、エク子。……絶対迎えに行ってやるからな」
車窓の向こうに、夕日に染まる東京のビル群が見え始めていた。




