閑話 世界の裏側にて
世界の裏側。
そこは物理法則も時間の概念も存在しない、高次元の『管理空間』。
無数のホログラムモニターが星空のように浮かぶ真っ白な空間の中央で、その人物――『管理者』は、退屈そうに宙に浮いたまま、虚空に足を組んでいた。
「あー……暇だ。最近の人間どもは、どうも小粒でいけない」
その時、空間の端で赤色のホログラムモニターが点滅を始めた。
「ん?」
『アラート。極東エリア・特級指定ダンジョン【奈落の御所】にて、【迷宮接続】の発生を検知しました』
「迷宮接続か。また厄介なエラーが起きたもんだ」
管理者は空中に浮かんだまま、モニターを手元に引き寄せた。
迷宮接続とは、ダンジョンの最深部の高位の魔物が、その膨大な魔力によってダンジョンのコアと同化し、数段強くなり、ダンジョンの境界線を侵食する現象だ。
このまま放置すれば、いずれダンジョンの内部が外界へと溢れ出す【迷宮氾濫】が引き起こされ、極東エリア――日本は物理的に地図から消滅するだろう。
「とはいえ、特級の氾濫まではまだ数ヶ月は猶予があるな。すぐに俺が手を下すまでもないか。一旦、様子見だな」
管理者はあくびを一つし、コーヒーの入ったマグカップを虚空から取り出して口に運んだ。人間たちがどう足掻くか、高みの見物と洒落込もうとしたのだ。
♦︎
しかし。
そのコーヒーを一口飲み込むよりも早く、赤色のエラー画面から青色の状態へと反転した。
『アップデート。特級指定ダンジョン【奈落の御所】、最深部コアの完全破壊を確認。……対象の迷宮が【踏破】されました。
よって迷宮接続および氾濫の危機は消滅しました』
「……ブッ!?」
管理者は思わずコーヒーを吹き出し、むせ返った。
「ゲホッ、ゴホッ! はぁ!? 踏破!? 特級ダンジョンが!?」
慌てて空中で姿勢を正し、モニターを両手で掴んで凝視する。
ダンジョンが踏破されること自体は、これまでに何度もある。
だが、国家が管理を諦め、封印指定としている【特級ダンジョン】が踏破されたことなど、この世界の観測史上、一度たりとも存在しなかった。
「誰だ、こんな無茶苦茶なことをやった馬鹿は……」
踏破者の詳細ログを開いた管理者は、そこに表示された名前に思わず片眉を上げた。
「……【結城 誠】。ああ、思い出した。少し前に蒼竜を素手で殴り倒したっていう、あのジャージのイレギュラーか」
管理者は呆れたようにため息をついた。
普通のSランクボスですら人類には手に余るというのに、迷宮接続が起きてシステムと同化した状態の暗黒龍を殴り殺すとは。
「おいおい、特級ダンジョンで迷宮接続が起きてる状態で踏破するとか、こいつは神にでもなるつもりか? ……まぁ、システムの構造上、神にはなれないけどな」
一人でツッコミを入れながら、管理者は誠の現在のステータスとスキルツリーの履歴を展開した。
そして、そこに記録されていた『内訳』を見て、今度こそ目を丸くして驚愕した。
「……マジかよ。こいつ、この時点で【大罪一柱】と【美徳二柱】を同時に擁していたのか?」
強欲(グリ子)、勤勉(トラ子)、慈善(エク子)。
神の権能の欠片であるシステムAIが、たった一人の人間の魂に三体も宿っていた。
「……そりゃ、勝てるわな」
管理者は納得したように頷いた。
だが、すぐにその表情は険しいものへと変わる。
「いや……待てよ。神の権能をフルで引き出せるのは、魂が『完全に覚醒』している時の話だ。こいつの魂の【格】は、今いくつだ?」
魂の『格』。それは、この世界のシステムが定めた、生命体としての根源的な強さの階位だ。全部で7階位まで存在する中で、誠の魂の格は……。
「……下から2番目。第2階位じゃねえか」
管理者は頭を抱えた。
特級ダンジョンで迷宮接続を起こした暗黒龍は、システムの補正込みで第4階位、あるいは第5階位に相当するバケモノだ。
つまり誠は、魂の格が2階位以上も上のシステム上『絶対に勝てない相手』を、物理的なゴリ押しで破壊したことになる。
「どうやって勝ったんだ? いくら100倍のステータスがあろうと、格の差は覆せないぞ……って、あぁ、なるほどな」
詳細な戦闘ログを再生した管理者は、すべてを理解した。
「美徳の1柱……【慈善】のAIを、存在ごと供物にしたのか。
自身の全てを投げ打つ美徳の極致。システムのエラーを利用して、一時的に格の壁をぶち抜いたってわけだ」
映像の中の誠は、光の砂となって消えゆく少女のAIを抱きしめようとし、そして絶望の中で咆哮を上げていた。
管理者は、少しだけ哀れむような目を向けた。
「……だが、おかしな話だ」
管理者は、空中に新たなコンソール画面を呼び出し、高速でキーを叩き始めた。
美徳や大罪のAIは、仮に力を使い果たして消滅したとしても、それはあくまで『表層のプログラム』が崩壊したに過ぎない。
通常であれば、システムの裏側で【ガベージコレクション(不要メモリの自動回収)】が行われ、一定の期間を経れば、初期化された状態で再び再構築されるのが世界のルールだ。
「……回収(GC)が、実行されていない? なんでだ? エラーか?」
管理者は首を傾げながら、システムの最深部へアクセスした。
そして、誠のスキルツリーの『現在の状態』を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
スキルツリーの奥深く。
そこには、失われたはずの【美徳:慈善】のスキルが、アイコンを灰色にした『非活性状態』のまま、しっかりと根を張っていたのだ。
「……バカな。AIという『依代』を失ったはずのスキルが、なぜ顕在化している?」
管理者は顎に手を当て、一つの仮説に行き着いた。
「――まさか。AIの存在を代償にしたことで、システムが【結城 誠(主人公)自身】を、美徳の新たな『依代』として誤認し、直接接続したのか?」
それは、システムを管理する者にとっても想定外の事態だった。
本来、人間が神の権能を直接その身に宿すことなど不可能だ。
まともに扱えずだからこそ、AIというクッション(緩衝材)を挟んでいたのだ。
もし、このまま誠の魂に『慈善』の力が直接定着し、顕在化するようなことがあれば。
「……いや、ダメだ。今のあいつの第2階位の低い『格』じゃ、神の権能を直接活性化させた瞬間に、キャパシティが溢れて肉体ごと塵になって消滅するぞ」
悲しみから立ち直ろうとしている男が、もし『慈善の力が自分に残っている』と勘違いしてスキルを起動しようものなら、その瞬間にバッドエンド直行だ。
管理者は、コーヒーカップを虚空に放り投げ、ポンと手を打った。
「まぁ、せっかくだ。厄介な迷宮接続を未然に解決してくれた褒美として、この致命的な事実を教えてやるとするか」
管理者は、楽しげな笑みを浮かべながら、手元のコンソールにコマンドを入力した。
「まずは、あの生意気なジャージの主人公を、こっちの空間に呼び出すか」
Enterキーが叩かれる。
特級ダンジョンを踏破し、地上へと帰還しようとしていた男の運命は、世界の管理者の気まぐれによって、再び予測不能な方向へと捻じ曲げられようとしていた。
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