エク子が残してくれた力
踏み込んだ瞬間、世界から一切の『摩擦』が消え去ったような錯覚を覚えた。
それは単なる数値の暴力ではない。
これまで鍛え上げてきた能力が、文字通り百倍に跳ね上がるということは、もはや物理法則に対する明確な『反逆』だった。
音が消えたのではない。
俺の踏み込みから生じた運動エネルギーが、空間内の空気を一瞬でプラズマ化させ、音を伝える媒質そのものを蒸発させたのだ。
ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
視認など不可能だったはずだ。
一条の純白の閃光と化した俺は、四肢を奪われた先程までとは次元の違う速度で、最も手前にいた暗黒龍の頭部へと肉薄していた。
『――ギ、ッ!?』
Sランクの覇竜を一口で丸呑みにしたあの巨大な頭部が、驚愕に瞳を収縮させる。
だが、その時にはもう、強欲の漆黒と美徳の純白を纏った俺の右拳は、分厚い鱗に覆われた眉間を『貫通』していた。
直後、内部に叩き込まれた圧倒的な衝撃波が限界を突破し、暗黒龍の巨大な頭蓋が水風船のように内側から弾け飛んだ。
「一匹ッ」
冷たく、低い声が自分の口から漏れる。
歓喜はなくただ、魂を焦がすような怒りと悲しみだけが、俺の脳を極限までクリアにしていた。
『バ、馬鹿ナ!? 貴様、ナニヲ――』
残る八つの頭部が、同位体の瞬殺を前にして激しく狼狽した。
右から、左から、背後から。
先程、俺の四肢を無惨に砕き散らした絶対の死の包囲網が再び迫る。
「……遅えんだよ、トカゲどもが」
俺の目には、山のような巨体を持つ頭部たちの噛みつきが、まるで静止画の連続のようにゆっくりと映っていた。
宙を蹴り、空気をコンクリートの壁のように踏み台にして強引に軌道を変える。
右から迫る巨大な牙を左手で掴み、そのまま全身のバネを使って、力任せに上空へと『投げ飛ばした』。
投げ飛ばされた頭部が、別の頭部と正面衝突を起こし、双方の頭蓋骨がひしゃげて砕け散る。
『グゥォォォォォォッ!! 貴様ァァァッ!!』
激怒した残りの頭部が一斉に顎を開き、あの漆黒の『虚無のブレス』を放射してきた。
触れれば原子レベルで消滅する、国家崩壊級のエネルギー波。
だが、俺は避けない。
避ける必要すらなかった。
「そんなモン、もう俺には効かねえ」
俺は迫り来る虚無の奔流めがけて、正面から突っ込んだ。
ブレスの余波が俺のジャージを消滅させ、皮膚を削り、肉を焼こうとする。
だが、それよりも遥かに速い速度で、エク子が遺してくれた【絶対自動修復】の純白の光が、細胞を編み直し、傷を完全に無かったことにしていく。
それは防御を完全に捨てた、死なない狂戦士の如く、ブレスの奔流を滝登りのように突き抜けた俺は、驚愕に硬直する三つの首の根本を、手刀による一閃でまとめて切断した。
ザバァァァァァァンッ!!
滝のように血が噴き出し、巨大な肉塊が次々と床へ落ちていく。
もはや戦闘ですらない。ただの【解体作業】だった。
『ガ、アァァァァァッ……!? バカ、ナ……我ガ、システムそのものである我ガ敗レル、ナド……ッ!』
瞬く間に八つの首を失い、残る最後の一つ。
最も巨大な中央の頭部が、後ずさるように悲鳴を上げた。
俺は空中で静止し、返り血で真っ赤に染まった顔を上げ、そいつを冷酷に見下ろした。
「敗れる? ……勘違いするな。お前はこれから、ただの残骸になるだけだ」
俺は両手を頭上で強く組み、ハンマーのように振りかぶった。
100倍の筋力、強欲の黒きオーラ、そしてエク子の純白の光。
空間の重力が俺の拳を中心に歪み、すり鉢状に渦を巻き始める。
「エク子の命を……この野郎ッ!!!!」
俺は隕石の如き落下速度で、暗黒龍の最後の脳天めがけて、渾身のダブルスレッジハンマーを振り下ろした。
――ズドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!!
直撃。
暗黒龍の頭部が首の根元まで完全にひしゃげ、その勢いのまま、46階層の分厚い岩盤の床に激突した。
しかし、100倍の破壊力は、それだけでは止まらなかった。
俺の拳から放たれた衝撃波が46階層の床をすり鉢状にブチ抜き、47階層へと直撃。
そのまま48階層、49階層の床すらも粉砕し、暗黒龍の巨大な胴体ごと、ダンジョンの構造を真っ直ぐ下へ下へと貫通していく。
地鳴りと崩落の連鎖。
そして俺の身体は、暗黒龍の残骸と共に、特級ダンジョン【奈落の御所】の最下層である『50階層』の底へと遂に到達した。
もうもうと立ち込める土煙。
ダンジョンの最下層は、これまでの階層とは異なり、ただ果てしなく広がる人工的な黒曜石の空間だった。
俺はズタズタになった暗黒龍の肉塊の上に降り立ち、荒い息を吐いた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
やった。全部、叩き潰した。
首はすべて潰し、胴体も俺の落下ダメージで完全に機能停止している。
終わった。
だが、心の中にある空洞は、少しも満たされてはいなかった。
俺の身体を包む純白の光、エク子の温もりが、役目を終えたかのように、少しずつ弱まり始めているのが分かったからだ。
『マスター……。対象の生命活動、完全停止を確認しました』
トラ子の声も、どこか沈み込んでいた。
「ああ。……終わったよ、エク子。お前のおかげだ」
俺はゆっくりと目を閉じ、天を仰いだ。
――その時だった。
『……警告。警告。空間内のマナ濃度、異常上昇』
トラ子の声が、突如として機械的なアラートに変わった。
直後。
俺の足元でピクピクと痙攣していた暗黒龍の巨大な肉塊が、突如としてドロドロのコールタールのように溶け出し、周囲の闇へと同化し始めたのだ。
「な……ッ!?」
九つの頭部も、山のような巨体も。
すべてが液状化し、50階層の空間の中央へと猛烈な勢いで吸い寄せられていく。
そして、その中心に……バスケットボール大の、一つの『黒い球体』が形成された。
『マスター! アレは……暗黒龍の肉体ではありません! 特級ダンジョン【奈落の御所】のダンジョンコアそのものです!』
「ダンジョンコア……!?」
『……特級防衛機構、完全損壊ヲ確認。対象個体ノ脅威度ヲ【規格外】ニ再設定』
黒い球体から、これまでとは全く違う、ひどく無機質で冷たい声が響いた。
怒りも、恐怖もない。ただの『システム音声』のような響き。
『当該個体ノ異常出力ハ、外部からの強制干渉ニヨルモノト推測。……エネルギー構造ノ崩壊予測時間、一八〇秒』
球体が脈動する。
その瞬間、俺の身体を包んでいた純白の光が、チカチカとノイズを立てて激しく明滅した。
全ステータス100倍という神の如き力と引き換えに、彼女の存在の残滓が、文字通り燃え尽きようとしている証拠だった。
『マスター! エク子の残した【慈善の極光】の制限時間が……あと、3分で完全に消失します!』
「制限時間、だって……ッ!?」
『防衛フェーズヲ【迎撃】カラ【隔離(遅延)】ヘト移行シマス。……対象ノ機能停止マデ、待機』
ダンジョンコアから、再び膨大な魔力が膨れ上がり始める。
奴は、俺のバフが切れるのを待つ気なのだ。バフが切れれば、俺は限界を超えた過負荷によって自壊するか、あるいは再構築された防衛機構に処理されるだけの存在に戻る。
敵は、圧倒的な強者から、絶対に触れられない『システム』へとその性質を変えた。
その徹底した遅延行為に、俺は明滅する純白の光を纏った拳を、ギリッと握り直した。
「……3分か。上等じゃねえか」
涙は、もう枯れた。
エク子がくれた、最後の3分間。
相手がダンジョンのシステムそのものだと言うのなら、システムごと、俺の拳で塵に還してやるだけだ。
「おい、クソコア。……お前が逃げ切る前に、俺がその黒い玉をブチ割って、このダンジョンごと終わらせてやる」
残された時間は、180秒。
極限の総力戦の幕が、今、切って落とされた。




