エク子の決意、慈善の極光
死の淵に立たされた人間の脳裏には、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡るという。
だが、今の俺の脳裏を占拠していたのは、そんな大層な記憶ではなかった。
頭に響くのは、いつだって喧しいほどに騒がしい三つの声だった。
冷静沈着でいつも正確な判断をするトラ子。
(時々あわあわするけどな)
偉そうな態度で俺を「宿主」と呼び、強欲の権能を早く目覚めさせろと急かすグリ子。
そして俺がスキルに目覚めた時からずっと一緒にいたエク子。
「ハァ……ハァ……ッ、ハァ……!」
46階層の荒れ果てた岩盤の上、俺は溢れ出る血の中に伏していた。
右腕は骨が剥き出しになり、左腕は破裂して赤い霧と化し、右足は膝から下があらぬ方向へ折れ曲がっている。
五感は麻痺しかけ、視界は自分の血によって真っ赤に染まっていた。
【存在強奪:概念剥離】の出力を限界まで引き上げた代償により、俺の基礎ステータスは今この瞬間も凄まじい勢いで溶け落ち、生命の灯火は風前の灯だった。
『……終ワリダ、人間。貴様ノ足掻キハ、コノ奈落ノシステムニ吸イ込マレ、タダノ塵トスル』
九つの巨大な漆黒の頭部が、一斉に俺の頭上を覆い尽くした。
その中の中央に位置する一頭が、ゆっくりと巨大な顎を開く。
その深淵のような口の奥底に、光すらも歪ませる絶対の死――『虚無のブレス』の漆黒のエネルギーがチャージされ始めた。
空間がチリチリと軋みを上げ、残された俺の左足の皮膚すらも、その予兆の余波だけで剥がれ落ちていく。
逃げ場はない。防ぐ腕もない。
……完璧なまでの詰みだった。
『マスター……マスター、ごめんなさい……っ! 私の力じゃ、マスターを助けられない……!』
心象世界の中で、エク子がボロボロと大粒の涙を流しながら、必死に微弱な回復の光を俺に送り続けていた。
だが、その光は暗黒龍のプレッシャーにかき消され、俺の肉体に届く前に霧散してしまう。
「謝るな……エク子……。悪いのは、あいつの硬さを計算できなかった、俺の頭だ……」
最後くらいはもっとマシな作戦を立てられればよかったが、もう遅かった。
俺は残された左足に力を込め、岩壁を背にしながら、ズル、ズルと無理やり身体を起こした。
両腕を損壊し、血塗れになったジャージを揺らしながら、暗黒龍の九つの赤い瞳を真っ向から睨み返した。
だが俺の意志は、1ミリも折れちゃいない。
『……マスター』
エク子の声が、これまでにないほど澄み切った音となって脳内に響いた。
それは一人の確固たる意志を持った者の声だった。
『マスターは、いつだって無茶ばかりでした。
本当はヒヤヒヤしてたんですからね!
でも諦めなかった……』
「エク子……? お前、何を言って……」
『私、ずっと悔しかったんです。トラ子ちゃんは完璧な予測でマスターを助けられるし、グリ子さんは凄まじい強欲の力でマスターに力を与えられる。なのに、私だけは応援するだけしかできなくて……でも!』
突如として太陽のようにはじけ飛ぶほどの眩い純白の光を放ち始めた。
『システム・権能制限。――強制解除』
『美徳の強制解放【慈善の極光】、展開します』
――ガガガガガガガガッ!!!
その瞬間、世界が激しいエラー音を奏でた。
『なっ!? 貴様、正気か小娘ーーーッ!?』
グリ子が心象世界で、これまでに見せたことのないほどの驚愕の声を上げた。
『今の宿主の肉体(器)の格では、美徳の最上位権能など制御しきれん! それを無理やり発動させれば、発動の負荷と代償で、貴様のデータそのものが焼き切れるぞ!!』
『 エク子先輩の存在消滅シーケンスが開始されました!
システムよりデータの自己崩壊を確認! マスター、止めてください! このままではエク子が――』
トラ子もまた絶叫した。
消滅、自己犠牲。
その不吉な単語の意味を理解した瞬間、俺の全身を、暗黒龍の恐怖を遥かに凌駕する絶望が駆け抜けた。
「やめろッ!! エク子、何をしてる! 俺なら大丈夫だ、まだ戦える! だから勝手に消えようとするなッ!!」
声にならない悲鳴を脳内で張り上げる。
だが、純白の光に包まれたエク子は、悲しげに、だけどどこか誇らしげに、優しく微笑んでいた。
彼女の手足の先が、まるでデジタルデータのノイズのように、パラパラと光の砂となって崩れ始めているのが見えた。
『マスター、私、最初から知っていたんです。
マスターのペナルティ……あの『装備制限』や『知力20』の呪いは、マスターがいつかこの理不尽な世界を壊すための【反逆の証】だってこと』
「そんなことどうでもいい! 頼むからやめてくれ、エク子……っ!」
『マスター。美徳の慈善の力の根源は、他者のためにすべてを捧げる気持ちなんです。
今のマスターに足りない格も、魔力も、全部……私の【存在そのもの】を代償にして支払えば、システムなんて関係なく、奇跡だって起こせるんですよ』
エク子の身体の半分が既に光の砂となって消え去ろうとしていた。
『マスター。今まで、ポンコツで本当にごめんなさい。でも……最後くらいは、マスターの『力』になりたかったんです』
『――大好きでした、マスター、結城誠。……勝ってください!』
それが、彼女の最後の言葉だった。
プツン、と。
脳内から、あのおっとりとした、少し抜けた愛らしい少女の気配が、完全に消失した。
「――エ、ク、子ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!!!」
俺の魂からの慟哭と同時。
暗黒龍の口から、すべてを虚無に帰す漆黒のブレスが放たれた。
世界を滅ぼす破滅の光条が、無防備な俺の肉体へと一直線に迫る。
しかし。
ブレスが俺の髪一筋に触れたその瞬間、俺の肉体の中心から、世界を白く染め上げるほどの【純白な極光】が爆発的に噴き出した。
ドバァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!
衝突すら、していなかった。
暗黒龍が放った国家崩壊級の虚無のブレスが、俺から溢れ出た純白の光の障壁に触れただけで、まるで太陽に投げ込まれた氷の塊のように、音もなく蒸発して消滅していったのだ。
♦︎
『……ナニ?!コノ莫大ナ魔力ハ……!?』
暗黒龍の九つの頭部が、初めて明確な『恐怖』を帯びて大きくのけぞった。
光の中に立つ俺の肉体で、信じられない現象が起きていた。
骨が露出し、肉が千切れ飛んでいた右腕が、純白の光の糸によって一瞬で編み直されていく。
原型を留めていなかった左腕が、猛烈な速度で細胞を増殖させ、真っ白で強靭な新しい腕へと完全再生していく。
あらぬ方向へ折れ曲がっていた右足の骨が、凄まじい音を立てて噛み合い、一瞬で元通りに繋がった。
それだけではない。
全身の毛穴から、黄金色のオーラが陽炎のように立ち上る。
失われていた体力が、魔力が、そしてこれまでに強奪してきたステータスが、限界を遥かに突破して逆流し、膨れ上がっていく。
『……エラー、エラー、数値が跳ね上がりすぎて測定不可能です……っ!』
トラ子が涙声のまま、狂ったように報告を上げる。
『美徳の効果を適用!
マスターの全基礎ステータスが、現在の値から100倍に固定されました!
さらに、肉体が破壊されると同時に復元する【絶対自動修復】の権能が付与されています!』
『く、はは……っ、ははははは! 100倍だと!? なんというデタラメなバフじゃ! 完全に世界のシステムをバグらせおったわ!』
グリ子が狂喜と畏敬の混じった笑い声を上げる。
100倍。
ただでさえ超人級に達していた俺の力が文字通り100倍になったのだ。
正直俺が一息つくだけで、46階層の空気の気圧が激しく変動し、周囲の岩壁にピキピキと無数の亀裂が入っていく。
暗黒龍のプレッシャーが、今の俺にとっては、ただのそよ風程度にしか感じられなかった。
だが。
この圧倒的な、神をも殺せそうな万能感の代わりに、俺の心の中は、底知れない『怒り』と、身を切るような『悲しみ』で完全に満たされていた。
完全に再生した両拳を、血管が千切れんばかりに強く、強く握りしめる。
俺の目からは、血のような赤い涙が、頬を伝って床の血溜まりへとポタポタと落ちていた。
「……なぁ、トラ子。グリ子」
俺は低く、地獄の底から響くような声で呟いた。
「この力……1秒も無駄にしねえぞ」
これまでは、ただ自分の力を試すため、あるいは世間の喧騒から逃れるための戦いだった。
冒険者として、ただ気楽に過ごせればそれでよかった。
だが、今は違う。
俺のためにすべてを捧げて、砂のように消えていった、エク子の想いを背負っている。
俺はゆっくりと顔を上げ、九頭の暗黒龍を、その赤い瞳で極限の殺意を込めて睨み据えた。
「おい、クソトカゲ。……お前を、1細胞たりともこの世界に残さねえ!」
ドンッッッ!!!!!
俺が地面を蹴った瞬間、46階層の『床』そのものが完全に崩壊した。
もはや物理法則の限界を超え、空間そのものを爆砕してクレーターを生み出していた。
超音速? そんな生易しいレベルではない。
俺の身体は光の弾丸と化し、九頭の暗黒龍が反応するよりも早く、その巨大な質量を置き去りにして、絶望の空へと一瞬で跳躍した。
その拳に、エク子が遺してくれた純白の光と、強欲の黒きオーラを限界まで激突させながら。




