限界、絶望
46階層の冷たく硬い岩盤に叩きつけられ、俺は派手な土煙を上げる。
受け身を取る余裕すらなかった。
右腕はズタズタに引き裂かれ、白い骨が露出して使い物にならない。
激痛で視界が明滅する中、俺は血反吐を吐きながらも、よろよろと立ち上がった。
『……ホウ。我ノ前デ、マダ立ツカ』
空間全域を震わせる重低音。
見上げれば、果てしなく広がる地下空間を埋め尽くすように、九つの漆黒の頭部が蠢いていた。
一つ一つが覇竜を丸呑みにするサイズだ。それが九つ。
もはや意志を持った『災害』の集合体だった。
『マスター! ダメです、これ以上は……! 戦闘での勝率は【完全なゼロ】です!』
トラ子の悲痛な叫びが脳内に響く。
『宿主よ、退け! 貴様の物理法則では、絶対に届かぬ次元じゃ!』
グリ子すらも、強欲の矜持を捨てて撤退を叫んだ。
「……退けって言われて、退ける状況じゃねえだろ」
俺は右腕をだらりと下げたまま、口の中の血をペッと吐き捨てた。
四方八方を九つの頭部に包囲されている。
上層へ続く道は、暗黒龍の巨体によって完全に塞がれていた。
「それに……俺はまだ、左腕が残ってる」
ドンッ!!
俺は残された左腕に、【存在強奪:概念剥離】のどす黒いオーラを限界まで集中させた。
(1分間に0.5%のステータス消費? そんなんじゃ足りない。こんなバケモノの装甲をブチ抜くには、もっと力(代償)が必要だ)
「グリ子! 出力制限を解除しろ! 俺のステータス、毎分5%でも10%でも持っていっていい! その代わり、あのクソ硬い鱗をぶち割るだけの『質量』を俺の左腕に寄越せッ!」
『なっ……!? 狂ったか宿主! そんなことをすれば、数分で貴様の肉体はただの一般人に戻るぞ!』
「ここで死んだら元も子もねえんだよ!」
俺の咆哮に呼応するように、左腕を包む黒いオーラが爆発的に膨れ上がった。
俺は無事な両足で岩盤を粉砕し、最も近くにあった暗黒龍の首の一つめがけて、弾丸のごとく跳躍した。
『――無駄ダ』
九つの頭部のうち、三つが同時に動いた。
右から、左から、そして正面から。
山のような巨大な顎が、俺を空中で噛み砕こうと殺到してくる。
「シィィィィッ!!」
俺は空中で身体をコマのように捻り、右から迫る顎の牙を蹴り足場にして軌道を変えた。左からの噛みつきを間一髪で躱し、正面の頭部の顎下へと潜り込む。
「ブッ壊れろォォォォォォッ!!」
限界突破した概念剥離のオーラを纏った左腕のアッパーを、暗黒龍の分厚い顎下めがけて叩き込む。
――ドガァァァァァァンッ!!!!
先程の右腕の時以上の轟音。
空間がひび割れ、俺の拳から放たれた衝撃波が暗黒龍の顎をカチ上げ、巨大な頭部をのけぞらせた。
硬い、硬すぎる。
だが、確かに鱗にヒビが入る感触があった。俺の極限のゴリ押しが、システムそのものである暗黒龍の装甲に亀裂を入れたのだ。
しかし。
「ガァッ、アァァァァァァァァァッ!?」
俺の口から、絶叫が漏れた。
亀裂を入れた代償は、あまりにも大きすぎた。
超絶的な反発力と、限界を超えた概念剥離の負荷によって、俺の左腕の骨は粉々に砕け散り、筋肉は破裂して赤い霧となって吹き飛んだのだ。
……両腕が、完全に死んだ。
『愚カ。自ラノ破壊力ニ耐エキレズニ、自滅スルトハナ』
のけぞった頭部がすぐに体勢を立て直す。
そして絶望的なことに、俺が左腕を犠牲にしてようやく入れた鱗のヒビは、周囲の瘴気を吸い込むと、シュウゥゥ……と音を立てて一瞬で自動修復されてしまった。
「嘘……だろ……」
俺の決死の一撃は、ダンジョンというシステムと同化した暗黒龍にとっては「かすり傷」以下のダメージでしかなかったのだ。
「ク、ソが……ッ!」
空中で体勢を崩し、両腕を失って落下する俺に、別の頭部が容赦なく巨大な尾を叩きつけてきた。
回避する術はない。俺は咄嗟に、無事な右足でその尾を蹴り迎撃しようとした。
バギィィィンッ!!
「ガ、ハッ……!?」
鉄球と爪楊枝が激突したような結果だった。
俺の右足は膝から下があらぬ方向へ折れ曲がり、強烈な打撃を受けた俺の身体は、ボールのように壁際へと弾き飛ばされた。
ゴロゴロと血まみれになって転がり、岩壁に激突してようやく止まる。
右腕は破壊され、左腕は原型を留めず、右足は完全に砕けている。
残っているのは、左足一本と、絶え間なく減少していくステータス、そして……絶対に折れない俺の意地だけだった。
『マスター……もう、やめて……っ!』
エク子が泣き叫ぶ。
『このままじゃマスターが死んじゃいます……っ!』
彼女の言う通りだ。微弱な回復の光が俺の身体を包んでいるが、肉体の損壊度合いと、ステータス減少による生命力の枯渇には全く追いついていなかった。
『……終ワリダ。人間』
九つの頭部が、血溜まりの中で倒れ伏す俺を見下ろす。
そのうちの一つが、ゆっくりと顎を開き、先程俺の右腕を破壊した『虚無のブレス』をチャージし始めた。
もはや避けることも、防ぐこともできない。
完全なる『詰み』。
「……ハ、ハハッ。終わる……かよ」
俺は、唯一動く左足を壁に押し付け、岩盤を削りながら、ズル、ズルと無理やり身体を起こした。
両腕は力なく垂れ下がり、右足は使い物にならない。
全身の血という血が流れ出し、意識は白濁している。
それでも、俺は暗黒龍の赤い瞳を真っ向から睨み返した。
「まだだ。まだ俺は……死んでねえ。まだ、戦える……ッ!」
『マスター……!』
『宿主……貴様、正気か……!?』
トラ子もグリ子も、俺の狂気じみた執念に言葉を失っている。
だが、俺の心象世界で、ただ一人だけ。
泣きじゃくっていたエク子が、ふと、静かに涙を拭う気配がした。
『……マスター』
エク子の声が、これまでにないほど澄み切っていた。
怯える声ではない。それは、何かを『決意』した者の、静かで力強い声だった。




