無謀な闘い
圧倒的な質量がそこにあるだけで、空間の物理法則が軋みを上げていた。
覇竜を、文字通り『一口』で噛み砕いた漆黒の顎。
見上げるほどの山のような巨体は、45階層の広大な地下庭園の天井すらも削り取り、岩盤をパラパラと崩落させている。
空に浮かぶ二つの赤い月の様な暗黒龍の眼球が、地上の芥子粒のような俺を真っ直ぐに見下ろしていた。
『警告! 警告! 対象から観測される魔力値、計測上限を突破!』
『マスター! 逃げてください! これは戦っていい相手じゃありません! 私の100%の軌道予測でも、生存ルートが【ゼロ】です!』
脳内でトラ子とエク子が絶叫する。
彼女たちのAIとしての論理的な演算が、目の前の絶対的な『死』を前にして完全に崩壊しかけていた。
『ふは、ふははははっ……! 素晴らしい! これぞ極上の獲物! だが宿主よ、死んでは元も子もないぞ! 奴の密度は、もはや生物ではなく【現象】じゃ!』
強欲の悪魔であるグリ子すらも、歓喜と同時に最大級の警戒を露わにしている。
だが、俺の足は一歩も後ろへは下がらなかった。
「……生存ルートがゼロ? 上等だ」
俺はボロボロの特売ジャージの袖を捲り上げ、両足を肩幅に開いて深く腰を落とした。
「なら、力ずくで(物理で)こじ開けるだけだッ!」
ドンッ!!
俺が床を踏み込んだ瞬間、45階層の枯山水の庭園が爆発した。
神話級の脚力による超音速の踏み込む。
身体は弾丸すら凌駕する速度で白砂の波紋を蹴り立て、真っ直ぐに暗黒龍の巨大な眼球と眼球の間――眉間めがけて跳躍した。
『――――』
暗黒龍は、咆哮すら上げなかった。
ただ、その巨大な顎をわずかに開き、深淵の奥底から『息を吐き出した』。
炎でもなく、氷でも、雷でもない。
それは、光すらも飲み込む絶対的な『虚無の奔流』だった。
ブレスが触れた瞬間、枯山水の巨大な岩が、白砂が、空間の空気そのものが、音もなく『死滅』していく。
『マスター! 回避不可能です! 触れれば原子レベルで消し飛びます!』
「避けるかよッ! 【存在強奪:概念剥離】!!」
俺は両腕にどす黒いオーラを限界まで纏わせた。
霊体を強制的に実体化させたあの権能。
相手が実体を持たない『虚無』のエネルギーならば、それを物理的に殴れる『質量』へと強制変換してやる。
1分間に全ステータスの0.5%を喰らう極悪な代償。
だが、今は出し惜しみしている場合じゃない。
「オラァァァァァァァッ!!」
空中で身体を捻り、迫り来る虚無の奔流のど真ん中へ、真っ向から右拳を叩き込んだ。
ガガガガガガガガッ!!!!!
俺の拳と虚無のブレスが衝突し、空間に幾重もの黒い火花が散る。
神話級の筋力と概念剥離のオーラが、暗黒龍のブレスを強引に『実体のあるガラス』のようにヒビ割らせ、左右に真っ二つに引き裂いていく。
「ウォォォォォォォォォォォッ!!」
全身の筋肉が悲鳴を上げ、毛細血管が弾けて全身から血の飛沫が舞う。
だが、俺はブレスの奔流を滝登りのように遡り、ついに暗黒龍の巨大な鼻先へと肉薄した。
『……ホウ』
暗黒龍の赤い瞳が、初めて『驚愕』の色を帯びて細められたのが分かった。
傷つけることすらできなかった絶対の絶望の懐に、ただのジャージ姿の男が、拳一つで潜り込んだのだ。
「これで……終わりだ、クソトカゲェェェェッ!!!」
これまでのダンジョン攻略で奪い尽くしてきた、数千体の魔物たちのステータス。
疾風狼の特訓で培った、極限の身体操作。
その全てを右腕の一撃に込め、俺は暗黒龍の眉間めがけて、生涯最高の一振りを振り下ろした。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!!
世界が、白く飛んだ。
鼓膜が破裂し、音という概念が消失する。
俺の拳が直撃した瞬間、暗黒龍の巨大な頭蓋骨が内側から爆ぜるような轟音が響き、衝撃波が45階層の空間そのものを内側から粉砕した。
バリィィィィンッ!!
天井が崩落し、足元の枯山水の庭園が広範囲にわたって陥没していく。
暗黒龍の山のような頭部が、俺の拳の威力を殺しきれず、首から上が『くの字』に折れ曲がり、そのまま崩壊する床と共に奈落の底(46階層)へと真っ逆さまに落ちていった。
パラパラと瓦礫が降り注ぐ中、俺もまた、重力に従って46階層の闇の中へと落下していく。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
全身から滝のような汗が噴き出し、心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。
やった。あのバカでかい頭に、俺の最強の一撃が完全にクリーンヒットした。
首の骨がへし折れる感触も確かにあった。
どんな規格外のバケモノだろうが、脳天をカチ割られれば死ぬ。それが物理の絶対法則だ。
俺は落下しながら、脳内に響くであろうトラ子の『討伐完了』のアナウンスを待った。
あの規格外のステータスの10%だ。どれほどの力が流れ込んでくるのか――。
…………。
……。
しかし。
いつまで経っても、討伐のアナウンスは鳴らなかった。
「……トラ子?」
俺が怪訝に思い、声をかけようとした、その時だ。
『マスター。……ダメです。……逃げてください』
トラ子の声は、もはや感情の抜け落ちたような、絶望のどん底にあった。
「どういうことだ。俺の拳は間違いなく――」
『対象の生命活動、一切の低下を観測できず。
……それどころか、マスター。ご自身の右腕を見てください』
「右腕……?」
言われるがまま、俺はだらりと垂れ下がった自分の右腕に視線を落とした。
そして、息を呑んだ。
ボタボタと、おびただしい量の鮮血が溢れ出ている。
俺の右腕の皮膚がズタズタに裂け、筋肉が断裂し、骨が『外側へ向けて』突き破っていた。
「なんだ……これ……」
痛覚が遅れてやってくる。
「痛ぐぁぁぁぁぁ!!」
激痛に顔を歪めながら、俺は事態を理解した。
殴られて壊されたのではない。
暗黒龍を殴った俺の右腕が、その『反発力』に耐えきれずに、俺自身の破壊力で内側から自壊したのだ。
『奴の鱗の強度は、物質の限界を超えています……! 隕石を殴って、自分の拳が砕けたのと同じです!』
俺が戦慄した直後。
崩落した46階層の土煙の底から、ズズズ……と、再び『それ』が鎌首をもたげた。
俺の渾身の拳を眉間に受け、首が折れ曲がったはずの暗黒龍。
その頭部は傷一つなく、それどころか、俺の拳が直撃した眉間の鱗が、まるで波打つ水面のように『衝撃を吸収して分散』させたような痕跡があった。
『――愚カナル、人間ヨ』
再び脳内に響く重低音。
先程までの知性的な声ではない。
それは、世界そのものが激怒しているような、次元の違うプレッシャーだった。
『我が肉体は奈落の底を流れる【大地脈】そのもの。
貴様の拳は、一つの星を殴り砕こうとしたに等しい。……その無謀なる傲慢に、等しき絶望を与えよう』
暗黒龍の背後、闇に包まれた46階層の広大な空間に、ボワッ、ボワッ……と次々に新たな赤い月が灯っていく。
二つ、四つ、六つ……。
「……嘘、だろ」
俺は、激痛の走る右腕を庇いながら、落下する空中で絶望的な光景を目の当たりにした。
46階層から下の階層全体にトグロを巻いていた巨大な胴体。
そこから、先程俺が殴り飛ばしたものと全く同じサイズの『漆黒の頭部』が、新たに八つも枝分かれして浮上してきたのだ。
八岐大蛇のごとき、九つの巨大な竜の首。
その全てが、一切の感情を排した赤い瞳で、宙に浮く俺を『エサ』として見据えていた。
『生存ルート、完全に消滅。……マスター、右腕の損傷率80%。全ステータス、概念剥離の代償により継続減少中……』
エク子が泣き崩れるような声で報告する。
特級ダンジョンの最深部にて、俺は初めて、純粋な『暴力』の限界と、絶対に超えられない強者の壁に直面していた。




