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踏みにじられた信頼と、紅蓮の救世主


 歓声の渦の中心で、天道茜はふと、視線を外した。


 周囲には彼女の快挙を称えるクラスメイトたちが集まり、次の攻略への期待を口々に語っている。


 だが、彼女の瞳は、遺跡の広場から少し離れた、鬱蒼とした森の入り口付近をじっと見つめていた。

(……あれは、確か。入学式の時に後ろの方で座っていた……結城くんだよね)


 一度しか言葉を交わしていない。

 本来なら、学園の主役である彼女の記憶に残るような存在ではないはずだった。


 しかし、あの時に感じた彼の「静かすぎる絶望」が、どうしても彼女の心に引っかかっていた。


 三つの巨大な荷物を背負い、泥にまみれ、罵声を浴びせられながら森の奥へと消えていく彼の背中。


「……ごめん。ちょっと用事を思い出したから、先に行ってて!」

「えっ、茜ちゃん!? どこ行くの?」


 仲間の静止を振り切り、茜は迷わず森の中へと駆け出した。


 その胸には、説明のつかない胸騒ぎが渦巻いていた。


 ◆


 一方、森の深部。

 神崎率いるチームは、最悪の状況に陥っていた。


 彼らの目の前には、訓練用とは思えないほど巨大な『ストーンゴーレム』が立ち塞がっていた。


「くそっ、なんでこんなところにボス級がいるんだよ! 予定と違うだろ!」

 神崎の放つ炎魔法がゴーレムの岩肌を焼くが、決定打には至らない。


 取り巻きの二人も必死に剣を振るうが、硬質な皮膚に弾かれ、逆にカウンターの衝撃で腕を痺れさせている。


 最後尾で、俺は三つの重いリュックを抱え、荒い息を吐きながらその光景を見ていた。


 膝はガクガクと震え、肩の感覚はすでに麻痺している。それでも、荷物を放り出すことは許されなかった。


「おい、結城! 早く魔力ポーションを……ああっ!?」

 ゴーレムの巨大な拳が、神崎の目の前の地面を叩き割った。


 爆風で吹き飛ばされる三人の戦闘科。

 幸い、彼らは高性能な防具を身につけているため、命に別状はない。


 だが、神崎のプライドはそれ以上に深いダメージを受けていた。

(まずい……このままじゃ、俺の成績に傷がつく。戦闘科のエリートが、たかが訓練用の魔物に追い詰められたなんて噂が広まってみろ。

今後のギルド選定に響く……!)


 神崎の脳裏をよぎったのは、仲間を助ける方法でも、逆転の秘策でもなかった。


 いかにして、自分の「傷」を最小限にしてこの場を切り抜けるか。

 神崎の冷酷な視線が、地面に這いつくばっている俺へと向けられた。


「……そうだ。お前みたいなゴミでも、使い道はあるよな」

「え……?」

 俺が顔を上げた瞬間、神崎のブーツの底が視界を覆った。


 ドゴッ、という鈍い衝撃。

 腹部を全力で蹴り飛ばされ、俺の体は三つの荷物と共に、前方のゴーレムの足元へと転がされた。


「お前が囮になれ! その間に俺たちは援軍を呼んでやるよ!」

「神崎! いい考えだ、行こうぜ!」


 背後で聞こえる、卑怯者の逃げ去る足音。

 あまりに急な出来事に、思考が追いつかなかった。ただ、目の前には、俺という「獲物」を見下ろす、無機質な岩の巨像が立っていた。


「あ……が……っ」

 立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

 逃げなければならない。


 だが、神崎に蹴られた衝撃と、荷物を持ち続けた疲労で、体が言うことを聞かない。


 ゴーレムがゆっくりと拳を振り上げる。

(……誰か。先生……!)


 視界の端で、監視カメラのような魔導具が浮遊しているのが見えた。


 先生たちは見ているはずだ。この理不尽な状況を。

だが、いつまで待っても、静止の号令も、救助の魔法も飛んでこない。


 「適性ゼロの生徒が、訓練中に少し怪我をする程度」――彼らにとって、俺の価値はその程度のものだった。


 ゴーレムの拳が、空気を切り裂いて振り下ろされる。


 死ぬ。

 そう直感した瞬間、俺は必死に地面を這い、無様に転がった。


 たまたま、地面の窪みに足を取られてつまずいたことが幸いし、拳は俺の頭上数センチを通り過ぎて地面を砕いた。


「ひ……っ、あ……」

 助かった。だが、代償は大きかった。

 無理な体勢で転んだ際、右足首から嫌な音がした。


 ズキズキとした激痛が走り、もはや這うことすらできない。


 全身は擦り傷だらけで、砂と血が混じってジャージを汚していく。


 ゴーレムは、逃げ遅れた獲物を逃がさない。

 再び、拳を高く振りかぶる。

 次こそ、避けられない。


 俺は、せめて最期に痛みを感じないようにと、固く目をつぶった。

(……結局、俺の人生って、こんなもんか)


 暗闇の中で、静寂が訪れる。

 だが、待てど暮らせど、衝撃は来なかった。

 代わりに聞こえてきたのは、鋭い金属音と、岩が崩落する轟音だった。


「――間に合った……っ!」

 震える瞼を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。


 ゴーレムの巨大な右腕が、肘から先を綺麗に寸断され、地面に転がっている。

 そして、俺の目の前。


 逆光を背負い、白銀の剣を構えて立つ、一人の少女の背中があった。


「……天道、さん?」

 彼女は振り返らなかった。

 ただ、その小さな背中からは、先ほどの神崎たちとは比較にならないほどの、魔力が溢れ出していた。


「結城くん、大丈夫? ……ごめんね、遅くなって」

 その声は、震えていた。怒りで。


 茜は一歩、踏み出した。

「仲間を、……同じ学校の生徒を、囮にして逃げるなんて。

そんなの、冒険者がすることじゃない……っ!」


 彼女の全身から、紅蓮の炎が噴き出す。

 それは彼女の感情に呼応するように、白銀の剣を赤く染め上げていく。

「はあああああッ!!」


 一閃。

 閃光が走ったかと思うと、ゴーレムの巨体は縦一文字に切り裂かれ、内部の魔力核ごと一瞬で蒸発した。


 ボス級の魔物を、たった一撃。

 それが、学園の最高傑作と呼ばれた彼女の、真の実力だった。


 静寂が戻る。

 茜は剣を鞘に収めると、慌てて俺の元に駆け寄り、泥だらけの地面に膝をついた。


「結城くん! 足、見せて。……ひどい、捻挫してるじゃない……! 今、回復ポーションを……」


「……ああ、ありがとう。助かったよ、天道さん」

 俺は、彼女が差し出してくれたポーションを受け取り、一口飲んだ。

 魔法の光が足を包み、痛みが少しずつ引いていく。


 助かった。

 確かに、彼女がいなければ俺は今頃、岩の塊に押し潰されて肉片になっていたかもしれない。


 だが。

 足の痛みとは別に、胸の奥底で、ドロドロとした黒い感情が渦を巻いていた。


 神崎たちに蹴り飛ばされた時の、あの感触。

 俺を「ゴミ」と呼び、笑いながら逃げていったあいつらの顔。


 そして、それを見て見ぬふりをした、この学園の空気。

(……助かった。でも、何かが死んだ気がする)


 味方に、仲間であるはずの人間に、平然と囮にされたという事実。

 適性がないというだけで、俺の命は、神崎の「評判」よりも軽いものとして扱われた。


 その事実は、茜の優しい掛け声でも、消すことはできなかった。

「……歩ける? 私、肩を貸すから。一緒に戻ろう」


「……ごめん。情けないな」

 茜は、泥だらけの俺の腕を引き、自分の肩に乗せた。

 彼女からは、温かくて、とてもいい匂いがした。


 だが、その温かさに触れるほど、俺は自分の中の冷え切った孤独を、より強く実感せずにはいられなかった。


 太陽の光を浴びるほど、影はより深く、暗くなっていく。

 俺はこの日、彼女という救世主に命を救われながらも、人間という生き物への、そして冒険者という夢への信頼を、決定的に失ってしまったのだ。



 アルバムを閉じる俺の手は、わずかに震えていた。

 かつての俺を救ってくれたのは、間違いなく彼女だった。

 だが、その救済すらも、俺の心の摩耗を止めることはできなかった。


『マスター……。そんなことがあったんだね』

『……神崎、だっけ。そいつ、今どこにいるのですか!?

エク子が今すぐギルドのデータベースから住所特定して、最強の「嫌がらせ」してくるよ!?』


 脳内で憤慨する二人に、俺は苦笑いを浮かべた。

(いいんだよ、もう昔のことだ。……それに、神崎みたいな奴は、どこにでもいる。

……問題は、茜だ)


 俺は、机の引き出しの奥にしまってある、古いキーホルダーに視線を落とした。

(あの事件の後、茜はさらに俺に構うようになったんだ。

……彼女は、俺を守らなきゃいけないと、強く思い込んでしまったんだよ。

……それが、彼女を追い詰めることになるとも知らずにな)


 夕闇が迫る部屋。

 俺は、さらに深く、暗い記憶の深淵へと、意識を沈めていった。


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