退院の日と、色褪せたアルバムの記憶2
タクシーは、都外れにある閑静な住宅街へと入り、見慣れた実家の前に停まった。
こぢんまりとした一軒家。
玄関のドアを開けると、昔から変わらない匂いが鼻をくすぐった。
「わぁ……! 帰ってきたぁ……!」
靴を脱いだ美桜が、安堵に満ちた表情でリビングへと駆け込んでいく。
俺にとっても、久しぶりの実家だった。
しがない事務員だった頃は、毎日の激務に追われ、休日は死んだように眠るだけで、実家に帰ることなど考えたこともなかったからだ。
「誠の部屋は二階よ。掃除はしてあるし、昔のままだから、ゆっくり休んでちょうだい。
今夜はご馳走にするからね」
「あ、ああ。ありがとう、母さん」
俺は階段を上り、自分の部屋のドアを開けた。
窓から差し込む夕日が、微かな埃を照らし出している。
学習机、色褪せたポスター、そして本棚に並んだままの教科書や漫画。
学生時代から時が止まったような空間が、そこにはあった。
懐かしい。
俺はベッドに腰を下ろし、部屋をぐるりと見渡した。
俺の学生時代は、決して輝かしいものではなかった。
昔から「冒険者適性がゼロ」であることは検査でわかっていた。魔法の才能も、剣の才能も、防御の才能もない、完全なる無能。
それでも冒険者への憧れを捨てきれなかった俺は、周囲の才能ある奴らにどんどん取り残されていく感覚を、この部屋で一人、ずっと噛み締めていたのだ。
『マスター。心拍数と呼吸が安定しています。実家という環境が、精神の回復に寄与していると推測されます』
『ねえねえマスター! 昔のマスターってどんな感じだったのですか? やっぱ今みたいにドジなおじさんだったのですか? それとも、尖ってた?』
脳内で、トラ子とエク子が興味津々な声を上げてきた。
(お前らなぁ……俺だって昔はピチピチの学生だったんだぞ。ドジなおじさんって言うな)
『じゃあ、どんな学生生活だったんですか?』
(そうだな……適性なしのコンプレックスの塊だったよ。
周りのエリートたちに引け目を感じて、自信がなくて、常に下を向いて歩いてるような、暗い学生時代だったさ)
俺は自嘲気味に笑いながら、本棚の奥にあった一冊の分厚い本を手に取った。
学生時代の、卒業アルバムだ。
(でもな……こんな暗くて無能な俺にも、優しくしてくれた人がいたんだよ)
『へえー! 女の子!? 初恋の人!?』
(……まあ、そんなとこかな。『茜』っていう、すげえ太陽みたいに明るい子だったんだ)
俺はアルバムの表紙を撫でながら、ゆっくりとそのページを開いた。
そして、目を閉じ、あの頃の記憶の奥底へと意識を沈めていった。
◆
――今から数十年前。
世界にダンジョンが現れ、冒険者という存在が人類の希望であり、最も人気のある花形職業として持て囃されていた時代。
当然、俺もそんな冒険者たちに憧れる、ごく普通の少年だった。
テレビの中で強大な魔物を打ち倒す冒険者たちは、幼い俺にとって、眩しいスーパーヒーローそのものだった。
だが、現実は非情だった。
十歳の時に受けた適性検査で、俺に下された結果は「すべての適性が測定不能」。
魔力を持たず、身体強化の素質もない。冒険者として生きていくことは絶対に不可能だと、医者からも親からも宣告された。
「お前には無理だ、誠。普通に勉強して、普通の会社に入りなさい」
親の猛反対。
それでも、俺はどうしても憧れを捨てきれなかった。
冒険者として最前線で戦うことができなくても、彼らを支える裏方としてなら、俺でもヒーローの背中を追えるかもしれない。
そう信じた俺は、死に物狂いで猛勉強し、冒険者育成機関の最高峰である『星導学園』の一般受験枠に合格した。
進路指導の先生からは「戦闘科の生徒たちとの才能の差に、必ず苦労することになるぞ」と何度も釘を刺されたが、俺の意志は固かった。
俺が入学したのは、魔物の解体や素材管理、ダンジョンのマッピングや後方支援を学ぶ『支援科』。
華やかな『戦闘科』の影に隠れた、裏方中の裏方だった。
――そして、春。
満開の桜が舞い散る中、星導学園の広大な敷地で行われた入学式。
講堂に集まった新入生たちは、皆、希望に満ちた顔をしていた。
壇上には、テレビで見たことのある有名な現役Aランク冒険者や、かつて伝説と呼ばれた引退した冒険者たちが、教師陣としてズラリと並んでいる。
彼らから直接指導を受けられる戦闘科の生徒たちが、俺には心底羨ましかった。
(いいよな、あいつらは適性があって、才能があって。
……俺は、ずっとあいつらの荷物持ちか、マッピング係なんだろうな)
自分の置かれた現実と、戦闘科の生徒たちの輝きとのギャップに、俺は入学式の初日から早くもコンプレックスに押し潰されそうになり、深く俯いていた。
支援科の席は、講堂の一番後ろ。
日陰者の特等席だ。
「……ねえ」
ふと、隣から声がした。
「君も、冒険者志望?」
顔を上げると、そこには一人の少女が座っていた。
肩で切りそろえられた艶やかな黒髪。
桜の花びらが舞い込んできたかのような、華やかで、それでいて親しみやすい笑顔。
制服の胸元には、俺たち支援科とは違う、戦闘科のエンブレムが誇らしげに輝いている。
(戦闘科のエリートが、なんで支援科の席に……? いや、それより)
俺は、自分の平凡さと無能さが恥ずかしくて、視線をそらしながらボソボソと答えた。
「いや……俺は、支援科だから。冒険者っていうか、その後方支援とか、ギルドの裏方志望だよ。適性、ゼロだからさ」
卑屈な返しだった。
「なんだ、ただの荷物持ちか」と鼻で笑われるか、「かわいそうに」と同情されるか。
どちらにせよ、みじめな気持ちになるだけだと思っていた。
だが。
少女は目を丸くして、それから、パッと花が咲くような、とびきり眩しい笑顔を見せた。
「えっ、支援科なの!? すごい!!」
「……はい?」
「だって、冒険者がダンジョンで安心して戦えるのも、迷わずに帰ってこれるのも、全部後ろで支えてくれる『後方支援』の人たちがいるからでしょ? 前衛が剣を振るうのと同じくらい、いや、それ以上に、支援科って命を預かる大事な役目じゃん!」
少女は、身を乗り出して俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「裏方って、すごくかっこいいよ。わたし、そういう見えないところで頑張る人、大好き!」
ドキン、と。
俺の心臓が、大きく跳ねた。
自分の才能のなさを呪い、裏方は地味で日陰の存在だと、誰よりも俺自身が見下していた。
それなのに、この見ず知らずの少女は、俺の選んだ道を「かっこいい」と、何の衒いもなく肯定してくれたのだ。
「わたし、戦闘科の『天道茜』! 剣術しか取り柄がないバカだけど、よろしくね!」
差し出された、白くて小さな手。
俺は戸惑いながらも、その手をそっと握り返した。
「お、俺は……結城、誠。よろしく、天道さん」
「誠くんね! いい名前! これから三年間、よろしく!」
それが、天道茜との出会いだった。
適性ゼロのコンプレックスに沈んでいた俺の暗い学生生活に、彼女という太陽が差し込んだ、忘れられない春の一日。
◆
「……」
俺はアルバムのページをめくり、一枚の写真で手を止めた。
文化祭の時の写真。俺の隣で、茜がピースサインをして笑っている。
『へええー! すっごく可愛い子じゃないですか!』
『マスター、こんな青春してたんだ! で、この茜ちゃんとはどうなったの!? 今どこにいるの!?』
エク子が興奮気味に問い詰めてくる。
俺は、写真の中で笑う茜の顔を指でそっと撫でながら、静かに息を吐き出した。
(どうなった、か……)
俺はアルバムをパタンと閉じ、天井を仰ぎ見た。
凛を失った悲しみと、かつての青春の眩しさが、胸の中で入り混じる。
(……茜は、俺にとってのヒーローだったよ。でもな、エク子)
俺は、自嘲するように心の中で呟いた。
(太陽みたいに明るい奴は……時々、自分を犠牲にしてまで、周りを照らそうとしちまうんだよ)
茜の眩しい笑顔の裏にあった真実を。
そして、俺が冒険者の夢を完全に諦め、冴えない事務員として生きることを決めた『本当の理由』を。
俺の脳裏に、深く沈めていた凄惨な記憶が、ゆっくりと蘇ろうとしていた。




