退院の日と、色褪せたアルバムの記憶1
黒曜の森での凄惨なダンジョンブレイクから、数日が経過していた。
新宿の街は、何事もなかったかのように平穏な日常を取り戻しつつあった。
テレビのニュースでは「大規模な魔物の群れが確認されたが、ギルドの迅速な対応により被害は最小限に抑えられた」と報じられている。
その裏で、一人の少女が誰にも知られずに命を散らしたことなど、世の中の人達は誰も知らない。
病院の無機質な白い廊下を歩く俺の足取りは、ひどく重かった。
受付で退院手続きと精算を済ませる。
ギルドからの特別報酬のおかげで、入院費は一括で支払うことができた。
これで、金銭的な不安は完全に消え去ったはずなのに、俺の胸の中には、ぽっかりと冷たい穴が空いたままだった。
コンコン、とノックをして、美桜がいる個室の扉を開ける。
「あ、お兄ちゃん! 遅いよ!」
そこには、すっかり顔色も良くなり、久しぶりに私服のワンピースを着た妹の美桜と、彼女の荷物をまとめている母親の姿があった。
「悪い悪い、精算に少し手間取ってな。母さんも、朝早くからごめん」
「いいのよ。誠も、仕事が忙しいのにわざわざ迎えに来てくれてありがとうね」
母さんが優しく微笑む。俺は、ベッドの横に立つ美桜に向き直った。
「美桜。……退院、本当におめでとう。よく頑張ったな」
「うんっ! お兄ちゃんがいっぱい頑張って、最高の治療受けさせてくれたおかげだよ。本当にありがとう!」
満面の笑みで喜ぶ美桜。
だが、俺の顔に張り付いた笑顔がどこか引きつっていたのだろう。
美桜はふと小首を傾げ、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……お兄ちゃん? なんか、顔色悪くない? 大丈夫?」
「えっ? あ、ああ、大丈夫だぞ。ちょっと最近、ギルドの仕事が立て込んでて寝不足なだけだ。
ほら、早く帰ろうぜ。美味いもん食わせてやるからさ」
「ほんと? むりしちゃダメだよ?」
俺は誤魔化すように美桜の頭を撫で、荷物を持って病室を後にした。
病院の出口へ向かう途中、ナースステーションの前で、お世話になった看護師さんや看護師長に挨拶をする。
「美桜ちゃん、退院おめでとう。これからは無理しないで、ゆっくり体力を戻していくのよ」
「はいっ! 皆さん、本当にありがとうございました!」
看護師長が、俺の方を向いてジロリと目を細めた。
「お兄さんもね。美桜ちゃんが退院したからって、また病室で『すき焼き』をやろうとしたみたいな無茶はしないでくださいよ?
栄養指導のプリント、ちゃんと渡しましたからね」
「うっ……は、はい。あの節は本当にご迷惑をおかけしました……」
俺がタジタジになりながら頭を下げると、周囲の看護師たちからクスクスと笑い声が漏れた。
そんなやり取りのおかげで、俺の肩に入っていた強張りが、少しだけ解けたような気がした。
◆
病院から実家へ向かうタクシーの中。
窓の外には、雨上がりの新宿の街並みが流れている。
平和に歩く人々。
俺が、いや、冒険者達がその命を懸けて守った光景だ。
助手席に座る母さんが、バックミラー越しに心配そうに声をかけてきた。
「誠。美桜も言ってたけど、本当に大丈夫なの?
なんだか、すごく悲しい顔をしている時があるわよ」
俺は、膝の上でギュッと拳を握りしめた。
詳しい事情なんか話せるはずもない。
それでも、今のこのぐちゃぐちゃな気持ちを、少しだけ吐き出したかった。
「……ちょっと、な。ギルドの仕事で、知り合った凛って言う子がいたんだ。
すっごい大食いで、俺の弁当とかファミレスのメニューを片っ端から平らげるような、変な女の子だったんだけど」
美桜と母さんが、静かに耳を傾けてくれる。
「俺、その子のこと、新しい家族みたいに思ってたんだ。
……本当なら、今日、実家に連れてきて、二人にも紹介したかった。
でも……ダンジョンの事故で、もう二度と、会えなくなっちゃったんだよ」
声が震えた。
無意識に、右手が左腕を強く掴んでいた。凛の胸を貫いてしまった、あの感触を振り払うかのように。
「俺が、もっと強かったら……。
いや、俺がもっと上手く立ち回れていれば、あの子を死なせずに済んだかもしれないのに。
結局、守れなかったんだ」
車内に、重い沈黙が落ちた。
窓を打つ雨粒の音だけが響く中、隣に座っていた美桜が、そっと俺の手に自分の手を重ねてきた。
「……その凛ちゃんって子、一度お話ししてみたかったな。お兄ちゃんがそんなに悲しむくらい、素敵な子だったんだね」
美桜の声は、優しく、そしてどこか大人びていた。
「でもね、お兄ちゃん。もしお兄ちゃんがその時、そこで戦って、みんなを守ってくれなかったら……きっと、もっとたくさんの犠牲者が出てたんだよね。
もしかしたら、この街の平和もなくなってたかもしれない」
「…………」
「大事な人を守れなかったのは、すごく辛いと思う。
……でも、ボロボロになりながらでも誰かのために必死に戦ったお兄ちゃんのこと、私はすごくカッコいいと思うよ」
美桜の言葉が、冷え切っていた胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
俺は、涙を堪えながら、ただ無言で深く頷くことしかできなかった。




