表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
107/127

空っぽの部屋


 冒険者ギルド新宿本部は、熱狂の渦に包まれていた。

 防衛線を守り抜いた冒険者たちへの労い、負傷者の治療、そして未曾有の危機を乗り越えた安堵の空気が、ロビー全体を満たしている。


 俺は、その喧騒を避けるように、血まみれのジャージ姿でフラフラとギルドの奥へと進んでいった。


「おっ、結城か!!」

 廊下の奥から、ギルドマスターの片桐が、数名の幹部を引き連れて足早に近づいてきた。


 彼の顔には、疲労の色が濃く滲んでいたが、同時に強い興奮の色も浮かんでいた。


「聞いたぞ、結城! 最深部で、君が単独で敵のボスと、その側近の魔人二体を討伐したそうだな!

前線にいた者たちが、君の放つ圧倒的なプレッシャーと、戦闘の余波を目撃していた!」


 片桐が、俺の肩をバンと叩く。

 彼の目には、もはや俺が「規格外のルーキー」ではなく、新宿を救った「真の英雄」として映っているようだった。


「いやぁ、まさかあの災害級の化け物どもを、君が一人で片付けてしまうとは……。

Aランク、いや、Sランクにすら匹敵する大戦果だ。ギルド本部として、君にどう報いればいいか……」


「ギルマス」

 俺は、虚ろな声で片桐の言葉を遮った。

「……詳しい話は、後にしてください。疲れてるんです」


 俺の異様な雰囲気に、片桐はハッとして言葉を止めた。

 そこで初めて、片桐は俺の顔色が死人のように青ざめていること、そして、俺の隣に『いるはずの存在』がいないことに気づいた。


「……どうした結城、顔色がひどいな。

それに……君と一緒にいた、あの白髪の少女は、どうした?」


 片桐の問いかけに、俺の胸の奥がギリッと締め付けられた。

 喉が張り付き、言葉がうまく出てこない。


「……俺が」

「ん?」

「俺が、殺しました」


 静かな廊下に、俺の声だけが重く響き渡った。

 片桐も、後ろに控えていた幹部たちも、一瞬、呼吸を止めたように硬直した。


「……君が、殺した……? どういうことだ。君はあの娘を、身を挺してでも守ると言っていたじゃないか」


「俺の……力が、暴走したんです」

 強欲のスキルについては伏せたまま、出来事をポツリポツリと語った。


 敵のボスが、凛を奪おうとしたこと。

 俺が力に飲まれ、理性を失ったこと。


 そして、暴走した俺の拳からキバを庇おうとして、凛が自ら盾となり、死んでしまったこと。


「俺は……最低のクズです。家族だと言いながら、自分の手で彼女を……」

 俺は俯き、床を見つめたまま唇を噛み締めた。


 血が滲むほどに強く。

 長い沈黙が降りた。

 片桐は、俺の言葉を最後まで無言で聞き届けた後、深く、重い息を吐き出した。


「……そうか」

 片桐の声には、先ほどの興奮は微塵もなかった。

 あるのは、長年数多くの死線と悲劇を見てきた、百戦錬磨の冒険者としての、深い哀悼と共感だけだった。


「……救われないな。君も、その娘も」

 片桐の大きな手が、俺の肩に優しく置かれた。


「だが、君が彼女を守ろうとして戦った事実は変わらない。そして、結果的に君がボスを討ち取ったからこそ、この新宿の何百万人という命が救われたのだ」


「……そんなの、慰めにもなりませんよ」

「だろうな。……だが、今はそれでいい。

その重荷は、君が一生背負っていくしかないものだ」


 片桐は、静かに俺から手を離した。

「わかった。討伐の状況や、敵の正体について色々と聞きたいことは山積みだが……今はやめておこう。

こちらはこちらで、事後処理と政府への報告でごった返している。

……落ち着いたら、また顔を出してくれ」


「……はい。ありがとうございます」

 俺は深く頭を下げ、ギルドの裏口から、夜明け前の冷たい街へと逃げるように飛び出した。


 ◆


 気がつけば、俺はボロアパートの前に立っていた。


 どうやって帰ってきたのか、道中の記憶は全くない。

 錆びついたドアノブに鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開ける。


「……ただいま」

 返事はない。

 薄暗い四畳半の部屋には、冷たい静寂だけが満ちていた。


 つい数時間前まで、ここで凛が「おじさん、ごはん!」と無邪気に笑いながら、スナック菓子を貪っていたのが嘘のようだった。


 俺は、ドドンキの黄色い袋をちゃぶ台の横に置いた。

 部屋の隅には、昨日新宿のデパートでしずくたちと一緒に選んだ、淡いブルーのワンピースが綺麗に畳まれて置かれている。


 ちゃぶ台の上には、凛が食べたがっていた『特大の苺のショートケーキ』の空箱が、無造作に転がっていた。


「……っ」

 それらを見た瞬間、俺の視界が歪んだ。

 今まで張り詰めていた糸が、完全にプツリと切れた。


「ああ……うあ……っ」

 俺は、ワンピースの前に膝を下ろし、その小さな布地を両手で強く握りしめた。


「ごめんな……ッ!」

 誰もいない四畳半の部屋で。

 俺は床に額を擦りつけ、子供のように声を上げて泣き崩れた。


 どうして、あんな力なんか願ってしまったのか。

 どうして、もっとうまく立ち回れなかったのか。


 どうして、俺は……。

 後悔だけが、暗い波のように俺の心を飲み込んでいく。

 夜が明けても、日が沈んでも、俺の涙が枯れることはなかった。


 ◆


 そこからの数日間は、文字通り『無』だった。

 俺はジャージも着替えず、血の匂いが染み付いたままの姿で、ただ万年床の上に仰向けに転がっていた。


 腹は減るが、ドドンキの袋から食料を取り出して食べる気にもなれなかった。

 あの中に詰まっている四畳半分の食料は、すべて凛のために買ったものだ。

 俺が消費していいものじゃない。


 スマホが、何度も鳴った。

 画面には、しずくや葵、雨宮さんからのメッセージが溜まっていく。


『結城さん、無事ですか? ギルドマスターから話は聞きました。落ち着いたら連絡くださいね』(しずく)


『結城さん、無理しないでくださいね。凛ちゃんのこと……私たちも信じられなくて……』(葵)


 優しい言葉の数々。

 だが、今の俺にはそれに応える気力すら残っていなかった。


 ただ、天井の木目を虚ろな目で見つめ、浅い呼吸を繰り返すだけ。

 ステータスのペナルティによる身体のだるさと、思考の鈍化が、俺をさらに深い泥沼へと引きずり込んでいた。


 ♦︎


 夢を見た。

 凛が、満面の笑みで俺に手を伸ばしてくる夢。


 俺がその手を握ろうとした瞬間、彼女の身体が血に染まり、光の粒子となって消えてしまう夢。


 何度も何度も同じ夢を見ては、自分の叫び声で目を覚ます。

 時間は、ただ無情に、俺の絶望など置き去りにして流れていく。


 そして。

 最悪のコンディションのまま、俺は『その日』を迎えた。


 長らく闘病生活を送っていた最愛の妹、美桜の『退院の日』である。

「……行かなきゃ」


 俺は、枯れ果てた声で呟き、数日ぶりに布団から這い出した。

 鏡の前に立つと、そこには無精髭を伸ばし、目の下に濃いクマを作り、頬がこけた、幽鬼のような男が映っていた。


 ステータスが下がった肉体は、鉛のように重い。

 だが、美桜の前でこんな顔を見せるわけにはいかない。


 美桜は、俺の残された家族なのだから。

 俺はシャワーを浴びて血の汚れを洗い流し、髭を剃り、新しい服(相変わらずの安いジャージだが、血は付いていない)に着替えた。


 無理やりに口角を上げ、不自然な笑顔を作る練習をする。

 心が完全に死んでいても、兄としての役割だけは果たさなければならない。


「……よし」

 俺は、誰もいない空っぽの四畳半の部屋を一度だけ振り返り、重いドアを開けた。

 初夏の日差しが、痛いほどに眩しく俺の目を刺した。

 

 こうして、ただの事務員から災害級の魔物を屠るバケモノへと変貌し、そしてすべてを失って抜け殻となった俺は、妹を迎えに病院へと向かった。


 ペナルティにより弱体化した身体と、癒えることのない深い傷を抱えたまま。


 俺の新たな、そして過酷な日常が、再び幕を開けようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ