空っぽの部屋
冒険者ギルド新宿本部は、熱狂の渦に包まれていた。
防衛線を守り抜いた冒険者たちへの労い、負傷者の治療、そして未曾有の危機を乗り越えた安堵の空気が、ロビー全体を満たしている。
俺は、その喧騒を避けるように、血まみれのジャージ姿でフラフラとギルドの奥へと進んでいった。
「おっ、結城か!!」
廊下の奥から、ギルドマスターの片桐が、数名の幹部を引き連れて足早に近づいてきた。
彼の顔には、疲労の色が濃く滲んでいたが、同時に強い興奮の色も浮かんでいた。
「聞いたぞ、結城! 最深部で、君が単独で敵のボスと、その側近の魔人二体を討伐したそうだな!
前線にいた者たちが、君の放つ圧倒的なプレッシャーと、戦闘の余波を目撃していた!」
片桐が、俺の肩をバンと叩く。
彼の目には、もはや俺が「規格外のルーキー」ではなく、新宿を救った「真の英雄」として映っているようだった。
「いやぁ、まさかあの災害級の化け物どもを、君が一人で片付けてしまうとは……。
Aランク、いや、Sランクにすら匹敵する大戦果だ。ギルド本部として、君にどう報いればいいか……」
「ギルマス」
俺は、虚ろな声で片桐の言葉を遮った。
「……詳しい話は、後にしてください。疲れてるんです」
俺の異様な雰囲気に、片桐はハッとして言葉を止めた。
そこで初めて、片桐は俺の顔色が死人のように青ざめていること、そして、俺の隣に『いるはずの存在』がいないことに気づいた。
「……どうした結城、顔色がひどいな。
それに……君と一緒にいた、あの白髪の少女は、どうした?」
片桐の問いかけに、俺の胸の奥がギリッと締め付けられた。
喉が張り付き、言葉がうまく出てこない。
「……俺が」
「ん?」
「俺が、殺しました」
静かな廊下に、俺の声だけが重く響き渡った。
片桐も、後ろに控えていた幹部たちも、一瞬、呼吸を止めたように硬直した。
「……君が、殺した……? どういうことだ。君はあの娘を、身を挺してでも守ると言っていたじゃないか」
「俺の……力が、暴走したんです」
強欲のスキルについては伏せたまま、出来事をポツリポツリと語った。
敵のボスが、凛を奪おうとしたこと。
俺が力に飲まれ、理性を失ったこと。
そして、暴走した俺の拳からキバを庇おうとして、凛が自ら盾となり、死んでしまったこと。
「俺は……最低のクズです。家族だと言いながら、自分の手で彼女を……」
俺は俯き、床を見つめたまま唇を噛み締めた。
血が滲むほどに強く。
長い沈黙が降りた。
片桐は、俺の言葉を最後まで無言で聞き届けた後、深く、重い息を吐き出した。
「……そうか」
片桐の声には、先ほどの興奮は微塵もなかった。
あるのは、長年数多くの死線と悲劇を見てきた、百戦錬磨の冒険者としての、深い哀悼と共感だけだった。
「……救われないな。君も、その娘も」
片桐の大きな手が、俺の肩に優しく置かれた。
「だが、君が彼女を守ろうとして戦った事実は変わらない。そして、結果的に君がボスを討ち取ったからこそ、この新宿の何百万人という命が救われたのだ」
「……そんなの、慰めにもなりませんよ」
「だろうな。……だが、今はそれでいい。
その重荷は、君が一生背負っていくしかないものだ」
片桐は、静かに俺から手を離した。
「わかった。討伐の状況や、敵の正体について色々と聞きたいことは山積みだが……今はやめておこう。
こちらはこちらで、事後処理と政府への報告でごった返している。
……落ち着いたら、また顔を出してくれ」
「……はい。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げ、ギルドの裏口から、夜明け前の冷たい街へと逃げるように飛び出した。
◆
気がつけば、俺はボロアパートの前に立っていた。
どうやって帰ってきたのか、道中の記憶は全くない。
錆びついたドアノブに鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開ける。
「……ただいま」
返事はない。
薄暗い四畳半の部屋には、冷たい静寂だけが満ちていた。
つい数時間前まで、ここで凛が「おじさん、ごはん!」と無邪気に笑いながら、スナック菓子を貪っていたのが嘘のようだった。
俺は、ドドンキの黄色い袋をちゃぶ台の横に置いた。
部屋の隅には、昨日新宿のデパートでしずくたちと一緒に選んだ、淡いブルーのワンピースが綺麗に畳まれて置かれている。
ちゃぶ台の上には、凛が食べたがっていた『特大の苺のショートケーキ』の空箱が、無造作に転がっていた。
「……っ」
それらを見た瞬間、俺の視界が歪んだ。
今まで張り詰めていた糸が、完全にプツリと切れた。
「ああ……うあ……っ」
俺は、ワンピースの前に膝を下ろし、その小さな布地を両手で強く握りしめた。
「ごめんな……ッ!」
誰もいない四畳半の部屋で。
俺は床に額を擦りつけ、子供のように声を上げて泣き崩れた。
どうして、あんな力なんか願ってしまったのか。
どうして、もっとうまく立ち回れなかったのか。
どうして、俺は……。
後悔だけが、暗い波のように俺の心を飲み込んでいく。
夜が明けても、日が沈んでも、俺の涙が枯れることはなかった。
◆
そこからの数日間は、文字通り『無』だった。
俺はジャージも着替えず、血の匂いが染み付いたままの姿で、ただ万年床の上に仰向けに転がっていた。
腹は減るが、ドドンキの袋から食料を取り出して食べる気にもなれなかった。
あの中に詰まっている四畳半分の食料は、すべて凛のために買ったものだ。
俺が消費していいものじゃない。
スマホが、何度も鳴った。
画面には、しずくや葵、雨宮さんからのメッセージが溜まっていく。
『結城さん、無事ですか? ギルドマスターから話は聞きました。落ち着いたら連絡くださいね』(しずく)
『結城さん、無理しないでくださいね。凛ちゃんのこと……私たちも信じられなくて……』(葵)
優しい言葉の数々。
だが、今の俺にはそれに応える気力すら残っていなかった。
ただ、天井の木目を虚ろな目で見つめ、浅い呼吸を繰り返すだけ。
ステータスのペナルティによる身体のだるさと、思考の鈍化が、俺をさらに深い泥沼へと引きずり込んでいた。
♦︎
夢を見た。
凛が、満面の笑みで俺に手を伸ばしてくる夢。
俺がその手を握ろうとした瞬間、彼女の身体が血に染まり、光の粒子となって消えてしまう夢。
何度も何度も同じ夢を見ては、自分の叫び声で目を覚ます。
時間は、ただ無情に、俺の絶望など置き去りにして流れていく。
そして。
最悪のコンディションのまま、俺は『その日』を迎えた。
長らく闘病生活を送っていた最愛の妹、美桜の『退院の日』である。
「……行かなきゃ」
俺は、枯れ果てた声で呟き、数日ぶりに布団から這い出した。
鏡の前に立つと、そこには無精髭を伸ばし、目の下に濃いクマを作り、頬がこけた、幽鬼のような男が映っていた。
ステータスが下がった肉体は、鉛のように重い。
だが、美桜の前でこんな顔を見せるわけにはいかない。
美桜は、俺の残された家族なのだから。
俺はシャワーを浴びて血の汚れを洗い流し、髭を剃り、新しい服(相変わらずの安いジャージだが、血は付いていない)に着替えた。
無理やりに口角を上げ、不自然な笑顔を作る練習をする。
心が完全に死んでいても、兄としての役割だけは果たさなければならない。
「……よし」
俺は、誰もいない空っぽの四畳半の部屋を一度だけ振り返り、重いドアを開けた。
初夏の日差しが、痛いほどに眩しく俺の目を刺した。
こうして、ただの事務員から災害級の魔物を屠るバケモノへと変貌し、そしてすべてを失って抜け殻となった俺は、妹を迎えに病院へと向かった。
ペナルティにより弱体化した身体と、癒えることのない深い傷を抱えたまま。
俺の新たな、そして過酷な日常が、再び幕を開けようとしていた。




